はてなブログに移行してきました

今後ともよろしく。

タイトルも少し改め、書評以外のジャンルも書いていこうと思います。

普通の物差しでは測れない男について ―― 『トラオ 徳田虎雄 不随の病院王』青木理著

出色のノンフィクションである。

「選挙は第4次産業」。
徳之島を中心に、奄美群島地区では昔から言われていたことらしく、実際、このブログの中の人も、20年くらい前に、同地出身の人に「実際まあ、そういわれてるよね」という話を聞いたことがある。
まあ、同地が日本屈指の金権選挙区であることは、昔から「知っている人は知っている」類の話だったわけである。

それが、なんで今になって事件化しているのかは、それなりの背景と理由があるわけだけれども、そういうことも含めて、徳之島の産んだ日本最大の民間医療グループ「徳洲会」の創設者にして、異色の政治家にして、ある種天才的な経営者、徳田虎雄という人に迫ったノンフィクションが今回のお題。
いや、この本、単なる〝悪い政治家”の人物ノンフィクションというカテゴリーに押し込めてしまっては、ちょっともったいない。
なんだか、考えさせられることが多いのである。

元々の単行本の初版は2011年。だから、この本は、一連の選挙違反事件を主要な題材にしているわけではないし、その背景を解明することを目的としているわけではない。
文庫版には17ページほどの加筆がなされ、事件の背景には触れられているけれども、あくまでも、日本一の〝病院帝国”を一代で築き上げ、そして今、ALS(筋委縮性側索硬化症)という難病に苦しみながらも「これからがじんせいのしょうぶ」と語る稀代の怪人物に迫るのが著者の意図である。

車椅子に座り、視線でプラスチックの文字盤を追いながら意思を伝える徳田虎雄氏の姿は、ニュースでご覧になった方も多かろう
ひらがなや数字、「YES」「NO」などの文字群が書かれた透明な文字盤を秘書が捧げ持ち、徳田氏は、目の動きで文字を指し示し、それを別の秘書や看護師がメモ用紙に書き取る。
そんな方法で今、徳田氏は自分の意思を周りに伝えているのである。

ALSというのは、身体を動かす神経系が壊れ、全身の筋肉が縮んでいく難病である。
車いすの天才物理学者、スティーブン・ホーキング博士と同じ病気だ。
原因はいまだ解明されていない。
ということは、治療法が存在しないということである。

徳田氏はすでに呼吸をつかさどる筋肉が機能しないため、のどを切開して人工呼吸器をつけている。
全身の筋肉が萎縮していくなかで、目を動かす筋肉が最後まで機能するため、視線を使ったコミュニケーションが、徳田氏と外界をつなぐ唯一の手段となっている。
そして、この病気では、脳の機能は最後まで正常でありつづける。
意識は全く正常でありながら、人が生きていくために最低限必要な機能さえ次々と奪われていく。
なんとも壮絶な病気なのである。

そんな状態にあっても、徳田氏は自らつくりあげた〝帝国”に君臨しつづけている。
グループ内の病院の会議室にはテレビカメラが設置され、つねに徳田氏のもとに中継できるようになっている。
そして、徳田氏は、視線を通して著者にこう語るのだ。

<ぜんしんの きんにくは よわつてしまつても あたまは せいじようで さえわたつている げんきだつた ときより むしろ ぶんかてき せいかつかも>

本書はまず、現在の徳田氏を理解するための背景として、ALSとはどのような病気なのか、そして、人がALSになったとき、その家族がどれほどの苦悩に見舞われるか、ということを語るところから始まる。
介護に疲れた家族が無理心中を図り・・・という不幸な事件も後を絶たない病気なのだ。

ALSの患者と家族は、ある段階で「人工呼吸器をつけるか否か」という決断を迫られる。
呼吸をつかさどる筋肉が侵されていく以上、人工呼吸器をつけなければ早番、生命の危機を迎えるタイミングが訪れるわけだが、人工呼吸器をつけることで「病気そのものが改善する」わけではない。
したがって、それは「治療」という意味での医療行為ではなく、人工呼吸器をつけるか否かは、患者の意思に任される。
しかし、実際のところは、患者一人の意思で決められる問題ではなく、家族への負担や経済事情や、その他もろもろの事情を勘案して決断せざるをえない・・・。

無論、徳洲会のトップである徳田氏は、自らの設立した病院の最高級の病室で、大勢の看護師の手厚い介護をうけて、経営の指揮をとっているわけだが。

徳田氏が医師を目指したきっかけは、弟が3歳で亡くなったことだという。
たとえば、現代の都市部であれば普通に助かっていたであろう、ちょっとした脱水症状。
しかし、戦後すぐの徳之島では、医者にかかることさえままならなかった。

徳之島は、かつて薩摩藩琉球王国のどちらからも差別的な扱いを受け、戦後の一時期は米国の統治下で極めて貧しい状態に置かれた地域である。
現在も、島民の平均所得は「内地」の半分程度、らしい。
それでいて、合計特殊出生率は全国トップクラス。
地元のタクシー運転手に言わせれば「(子作り以外に)なにもやることがない」から、だそうだが。

そんな環境から飛び出して大阪大学の医学部を卒業し、巨大医療グループを一代で築き上げたとなれば、大層な「立身出世物語」である。

これは、著者も「意外」と評しているのだが、徳洲会が次々と病院を設立し始めたころ、マスコミを中心に世間はかなり好意的に見守っていたらしい。
「生命(いのち)だけは平等だ」というスローガンのもと、僻地医療の充実と「年中無休・24時間営業」「急患は断らない」「患者様からの贈り物は受け取らない」といった方針を掲げ、日本医師会の方針に従わずに快進撃を続ける徳洲会グループは、〝医療改革の旗手”とみられていた。
1979年の週刊ポストの記事を本書から孫引きしてみる。

理事長・徳田虎雄氏のことを〝医療界の中内功”というのだそうな。権威と規制の商圏(!!)にアグラをかいてきた開業医の縄張りに「急患拒まず、夜間いとわず、お金はなるべく使わせず……」と結構ずくめのキャッチフレーズで殴り込みをかける「ホスピタル・チーム」の急進撃である。<中略>おびえる医師会は“患者人質戦法”で抵抗するが、庶民の軍配は言わずと知れた方向に上がる。
中内功の“功”の右側は、原文では“力”ではなく“刀”)

当時の日本医師会は、「けんか太郎」「武見天皇」とも呼ばれ、25年にわたって会長を務めた武見太郎のもと、絶大な政治力を持っていた。
そして、自ら目指す医療改革を実現するためには政治力が必要だ!・・・というわけで政界に進出した、というのが、徳田氏側の公式見解である。

“公式見解”と書いたのは、はたしてそれが、「本当の理由なのか」というのが、完全には納得しきれなかったのである。
これは、全くの個人的な感想なのだが、徳田氏の計り知れないエネルギーを発露させる場所が、単なる「医療改革」の範疇には収まりきらなかったのではなかったのではないか、という印象がぬぐえない。

実際、大学の同級生の、このような証言もある。

徳田の阪大医学部時代の同級生、多田羅浩三との対話に戻ろう。<中略>
――なるほど。ところで、学生時代に徳田さんは、自ら理想とする医療について語ってたんですが?
「語ってない」
――語ってないんですか? 離島に病院を作るとか、僻地でもきちんと医療を受けられる社会体制を作るんだとか、それは徳田さんが常々訴えてきたことだったと思うんですが……。
「それがウソだとは思わんけどね。だけど、(あとから)とってつけたような話だと、僕は思う」

真相はともかく、徳田氏は病院経営で蓄えた膨大な資産をもとに、壮絶な選挙をやってのける。

そもそも、徳田という男、世俗の善悪を超越し、自分の目的のためにはいつの間にかすべてを正当化して、しかも周りの人々を自らの論理に従わせてしまう独特のエネルギーを持っているようだ。

徳洲会グループの事務総長に就いた能宗克行がこんな話を教えてくれたことがある。
「運転していると理事長(=徳田氏。引用者注)からはしょっちゅう怒鳴られましてね。『親の死に目に会えるかどうかっていう時に信号を守るやつがどこにいるんだっ』って。理事長にしてみれば、一人でも多くの生命を守るための病院建設はそれほどの重要時だってことなんですが、一般の方には理解されないでしょうねえ(苦笑)」

もともと、徳之島というのは、小学校の運動会の順位が賭けの対象になるほど、バクチ好きの土地柄らしい。
そして、莫大な補助金に支えられた土建業が島の重要な産業の一つ。
そんな土壌に、莫大な資金をばらまき、なんとしても当選したい男があらわれれば、そりゃもう、大変なことになっていたらしい。
選挙管理委員長が選挙違反の片棒を担ぎ、逮捕されそうになると徳洲会病院に入院して緊急手術をさせて逮捕を免れるというのは、ほとんどドタバタ喜劇の世界だが、実際、その辺の描写は、「不正が行われている現場」というより、どこか不思議なユーモアすら漂う。
その辺の感覚は、実際に読んでいただければわかると思うけれど。

本書の中には、大勢の人の“徳田評”がでてくるが、なかでも白眉なのは、かつて徳田虎雄の結成した「自由連合」に所属し、衆議院に籍を置いたことがある経済人類学者・栗本慎一郎の人物評だろう。
(栗本信一郎って、わかるかどうかで世代の指標になりそうだが)。

「私も結構、いろいろな人間にあってきたけど、あんな人は一人しかいない。<中略>とにかく純粋に変わってるんだよ(苦笑)。ふつうあんなに純粋に人は生きられない。逆に言えば、だからまっすぐに進めるんだ。そんなトラさんに異様な魅力を感じる人はたくさんいますよ」
<中略>
「明らかに汚いし、僕としてはマズいんじゃないかと思うことはいくつもありましたけど、誤解を恐れずに言えば、根が純粋なんです。純粋に生きる中で、純粋じゃないように見える行動をするから、話が混乱する」
――選挙違反とか、買収とか……。
「悪事をするのに、純粋もくそもないんだけど、それでも純粋なんです。目の前を金が動いても、汚く見えないんだ。これは付き合ってみないと分からないな……。もし泥棒だとしたら、純粋な泥棒。あるいは『汚くないウンコ』みたいな感じがした。」

そして、徳田氏は「天才的な経営者」としての側面も併せ持つ。

WBS(ホールビジネス・セキュリタイゼーション)という資金調達の手法がある。
今後ビジネスが生み出すキャッシュフローを含めて、事業の生み出す価値を丸ごと証券化して資金を調達するという手法だそうで(これ以上の説明は勘弁してください)、ソフトバンクボーダフォンを買収するときに活用して有名になった手法だが、徳洲会のほうが、ソフトバンクより先に活用しているのである。
この資金調達に関係したファンドマネージャーはこう語っている。

「政治家や医師としての徳田氏はよく知らないけれど、企業経営やビジネス的な面で見れば、なにやら動物的な勘を持っているというか、一種の天才じゃないかと思いますよ」

なんとも普通の物差しでは図り切れない幅をもった人物なのである。
徳洲会にかかわる人物の中に、社民党民主党の議員から、地域医療や海外の医療援助の専門家、批判を浴びながらも病気腎移植を決行した医師など、あまりにも多彩な人々が含まれていることも、その証左なのだろう。
そして、徳之島という、日本の地域格差や過疎の問題を象徴するような地域に総合病院を設立し、地域医療に莫大な貢献をしてきたのが、この男であるのも、まぎれもない事実なのだ。
それは本来、「政治」の解決すべき問題なのだろうが。
そして、「政治学の教科書」的に判断すれば、徳田虎雄の政治活動というのは、「正しい民主主義」を否定する唾棄すべきもの、なのだが。


そんな徳田虎雄率いる徳洲会が窮地に陥っているのは、30年以上にわたって徳洲会を支えてきた大番頭である事務総長が解任され、マスコミや検察の側に寝返ったからである。
なぜ、解任されたのか。
全身不随になったトップの名代としてグループ経営の最前線に立つ事務総長に対し、徳田の妻や子供たちが疑いの目を持ち始めたからだ。
徳田の威を借りて、好き放題をやっているのではないか?

事務総長の立場からすれば、子供たちの方が私腹を肥やしている・・・という話になる。
まあ、ありがちな「莫大な財産と権力をめぐった、番頭と子供たちの争い」であって、2時間サスペンスドラマだと、盗み聞きしていた家政婦が真実を暴いてしまいそうな話でもあるのだが(ってネタが古いか)。

この元事務総長の名は、能宗克行という。先の、信号無視のエピソード引用に登場した人物である。

一連の事件で、すでに徳田氏の妻も娘も、そして能宗元事務総長も逮捕されている。
はたして、今、どんな思いを胸に抱いているのだろうか。
そして、徳洲会の膨大な資金力にたかってきた政治家たちも。

それはもちろん現都知事だけではないはずだ。
もし、すべてを明らかにしてしまえば、日本の政治が一時機能不全におちいるのではないか、と思うのだが、どうだろうか。

モノを作らない“ものづくり企業”について ―― 『アップル帝国の正体』 後藤直義・森川潤 著

ドコモがついにiPhoneを扱い始め、なんか新しい機種もではじめて、世間はいろいろ賑やからしいです。
“らしいです”というのは、このブログの中の人が、数ヶ月前にやっとガラケーandroidスマホに変えたばかりで、とくにアップルの製品に興味のないボンクラさからなのですが。
なんというか、一連の騒動、「AKB総選挙」と同じくらい、どこかの“向こう側”で起こっているような感じがしてまうわけです。

しかし、そうはいっても(いや、むしろ、そうだからこそ?)アップルという会社の何が、そんなに世間を騒がせるのか、というのは、関心がそそられる。
で、スティーブ・ジョブズの凄さとか、iPodやら、iPadやらの製品の素晴らしさについては、興味がなくても目に飛び込んでくるくらい、やたらと語られているけれど、“アップルという会社自体”の凄さや特異性については、まだまだ語られていない気がする。
(お前が目にしていないだけだ、といわれると、返す言葉がないけれど)。

で、その辺を、とくに日本企業との関係や対比を軸に、分かりやすく語っているなあ、と思ったのが、この本なわけです。

アップル帝国の正体

アップル帝国の正体

著者は共に週刊ダイヤモンドの記者。
内容の一部は同誌の連載に負っているわけだが、さらに自費での取材もすすめて一冊にまとめたらしい。
だから版元が文芸春秋なのか。

さて、アップルという会社は、iPhoneiPadMacBook Airといったデバイスを販売する会社である。
そういう意味では「メーカー」に分類されるのかもしれないが、しかし、今のアップルは自らはモノは作らない、ということは良く知られている。
個々の部品は、日本メーカーをはじめとする、世界の最先端技術をもったサプライヤーから買い集め、組み立ては中国や台湾のメーカーが行っている。

本書の第一章は、かつて「世界の亀山モデル」としてテレビ市場を席巻したシャープの亀山工場のエピソードから始まる。
シャープの亀山第一工場は、アップル向けの液晶パネルを独占的に供給するという契約を結んでいる。

アップルから毎月送られてくる生産計画をもとに、せっせとiPhone用の液晶パネルを作っては、iPhone本体を組み立てている中国に輸出していた。
 アップルからの注文が来なければ、その分、生産ラインを止めることになる。いくら他のメーカーから注文があっても、この工場で生産することは許されていないのだ。

工場内には、“Property of Apple Operation(アップルの固定資産)”というシールが張られた製造装置が並び、シャープ社員が入ることを禁じられた部屋がアップル社員に用意され、工場をコントロールしているという。

もちろん、それは、経営不振に陥ったシャープの窮余の一策だったわけだが、しかし・・・。

アップルは冷徹に「仮にシャープが倒産した場合にも、iPhone用の生産ラインには一切迷惑をかけるな」と繰り返し主張していた。
 沈みゆくシャープに手を差し伸べて、年間3兆円をゆうに越える純利益という「甘い果実」を分け合うつもりなど、アップルには全くなかったのだ。

初代iPodの光り輝く背面のシルバーが、日本の燕三条地区の職人による金属加工技術で磨き上げられていたことは、よく知られたエピソードである。
つまり、彼ら、世界中を駆け回って、自らのビジョンを具現化するためのサプライヤーを血眼で捜しているのだ。

本書によれば、iPhoneのカメラが飛躍的に進歩したのはソニーの技術の賜物だし、半導体東芝エルピーダメモリ、部品では村田製作所やTDK、京セラに日東電工といった、日本の名門企業がアップルのサプライヤーとして名を連ねる。
これら日本企業は「わが社の技術がiPhoneに使われている!」と喧伝したいところだろうが、そうはいかない。

アップルの取引企業は、「有力な取引先でさえ、アップルに納めていることを口外することは許されない」と話す。NDA(秘密保持契約)を結ばされており、巨額の違約金が発生するという文面にサインをさせられ、“口封じ”にあっているからだ。<中略>
彼らの強さの本質が浮かび上がってくる。それは、ちまたで言われている「美しいデザイン」や「魔法」といった言葉とはかけ離れた、ビジネスに賭けるすさまじい執念だ。
 アップルの取引先は、神経質なまでの秘密保持契約を結ばされる一方で、逆に、アップルには“丸裸”にされてしまう。

こうした「ビジネスへの執念」は、もちろんサプライヤーだけではなく、家電量販店や携帯キャリアにも向けられる。もちろん、iTunesを通してかかわりを持つ、音楽業界に対しても。

日本では、キャリアによる携帯販売方法の特殊性もあって、iPhoneが高級品でステータス・シンボルであるという意識は薄いけれども、海外では、明らかに「iPhoneを使う層」と「Android」を使う層では、明らかに分かれる国が多いという。
そのブランド力を維持するためにも、かれらの「ビジネスの執念」はもちろん発揮されている。
そうして出来上がったのが、ブランドショップと見まがうような「アップルストア」の存在である。

実際、アップルストアの店舗床面積1平方メートル(約30センチ四方)あたりの年間売上高は圧倒的で、4406米ドル(約35万円)に達する。ジュエリー大手の「ティファニー」の3070ドル(約24万円)をしのぎ、バックなど高級比較メーカーの「コーチ」の1776ドル(約14万円)の2倍以上になる。

そして、アップルの製品というのは、極めて利益率がたかいのである。

調査会社IHSアイサプライによると、12年9月に発売されたiPhone5(アンロック版)の部品原価は16GBモデルで199ドル(約1万8000円)。これに対して、販売価格は649ドル(約5万8000円)。為替相場の変動はあるものの、日本での販売価格を比較してみても、アップルは販売利益のほぼ全てを「独り占め」していることがわかる。

アップルがこれだけの力を持てる源泉は、なにか。
なんといってもそれは、世界で年間1億台以上も、一つの機種のスマートフォンを売り切るという製品の力だ。
それが、サプライヤーに対しては強力なバイイング・パワーとなるし、キャリアや販売店を額ずかせる力にもなる。

卓抜した製品コンセプトを作ったうえで、自らモノを製造するのではなく、ぬきんでた製品を製造する「仕組み」をつくる。
アップルの強さを簡単にまとめると、こんなところになるだろうか。

若き日のジョブズは、いい商品を自社工場で完璧に作りさえすれば、お客さんが喜んで買ってくれると思っていた。<中略>
ところが、ジョブズはアップルに復帰後、そのような考えを大胆に改める。<中略>
しかも、ただ製造を丸投げしたのではない。時には自社でカネを負担してまで、中国の巨大工場に最先端の製造設備を導入させ、その生産ラインから独占的に供給を受けることで、他社が簡単にまねできないものづくりのシステムを築いていったのだ。
 このような、強大な外部サービスと高度に連携することで、アップルは常に世界最高の加工・製造技術を、きわめて安いコストで利用できるようになっていった。


さて、そんなアップルのライバルとは、今、どんな企業だろうか。
著者は、「グーグル」と「アマゾン」の名を挙げる。
たしかに、前者のネクサス、後者のキンドルは、おそらく今、iPadのライバル製品として筆頭に挙げられるだろう。

だが、これらのライバルはまた、appleとは全くビジネスモデルが異なる。

googleは、その収益の大半を、検索サイトに付随した広告でたたき出す。
そして、広告の価値を高めるためには、できるだけ、多くの人に検索サイトを使ってもらう必要がある。
そのために、デバイスを売るわけだ。
そして、amazonにとってkindleは「電子書籍やオンラインショッピングの商品を買ってもらうためのデバイス」である。
つまり、2社とも、モノを売ることで利益を出す必要がない。

IHSアイサプライの分析によると、キンドルファイアに使われている部品コストと組立費用を足し合わせると合計209.63ドルになる。つまり単純に計算すれば、端末を店頭で1台売るごとに、小幅ながらも赤字が出てしまう計算になる。

これは、「ものづくりの仕組みを変える」ことで戦いを勝ち上がってきたアップルにとって、また違った戦いを強いられる事態だろう。

ジョブズ亡き後、どんどんフツーの会社になりつつあるといわれるアップルが、そこでどんな戦いを繰り広げるのか。
アップルが“新しいテレビ”に取り組んでいるという話は以前からささやかれていて、本書でもとりあげられているのだが。

一つだけいえるのは、iPhoneを越えるヒット製品が出ない限りは、アップルに対しては「ジョブズがいたなら……」という風評がいつまでもつきまとうことだ。そして画期的な製品に結びつかなければ、こうした新たな努力も、過去の栄光を知る人には「迷走」と映ってしまう。ジョブズが築いた栄華はいまや、アップルにとっては“呪縛”になりかねないところまで来ている。

そして、日本のメーカーが、単なるアップルのサプライヤー=植民地にとどまっているとするならば、それは帝国の没落とともに、没落していくことになるのではないか・・・そう考えると、ちょっと背筋の寒い話ではある。

痛快娯楽劇と経済小説の間――ドラマ『半沢直樹』と原作について

ほぼ3ヶ月ほどブログを休んだわけだが、まあ、ゆるゆると復活していこうと思うので、よろしくお願いいたしたく。

先日、とあることを検索しようとして「は」と入力したら、それだけでgoogle先生が検索候補として「半沢直樹」という単語を挙げてきた。
まあ、それぐらいの「ブーム」なわけである。

最近は「振り返ればテレビ東京」といわれるTBSも異様な盛り上がりぶりで、それには、こんな背景もあるらしい。

これまでの一般劇(※NHK大河&朝の連続テレビ小説除く1977年9月26日以降に放送された番組)歴代視聴率TOP3を振り返ってみると、1位は『積木くずし・親と子の200日戦争』(1983年 TBS系)最終話の45.3%、2位が『ビューティフルライフ』(2000年 TBS系)最終話の41.3%、そして3位に『熱中時代』(1979年)、『家政婦のミタ』(2011年 共に日本テレビ系)の40.0%となっている。 

ORYCON STYLE 『半沢直樹』は名実共に“伝説のドラマ”となるのか!?
http://www.oricon.co.jp/news/movie/2028847/full/

これで、『半沢直樹』が40%越えとなれば、歴代3位をTBSが完全に独占というわけで、そりゃあ盛り上がろうというわけである。

で、現在、書店にいくと、このドラマの原作本が平積みとなっている。

オレたちバブル入行組 (文春文庫)

オレたちバブル入行組 (文春文庫)

オレたち花のバブル組 (文春文庫)

オレたち花のバブル組 (文春文庫)

ドラマでいえば『オレたち〜』が5話までの大阪編、『花の〜』が伊勢島ホテルが登場する東京編、となる。

なぜこのドラマがこれほどヒットしたのか?というのは、すでにいろんなところに論じられているけれど、まずは、原作がしっかりしているということが言えるだろう。
そして、配役。
たとえば「A●Bの何某」やら、「ジャ●ーズの何某」を売り出そうとか、次代の事務所のホープに育てようという剛●ちゃんを主役にねじ込むとか、そういう「背後の事情」ではない、原作のキャラクターを的確に演じられる俳優を起用しようという強い意思が感じられる。

黒崎検査官は、原作でも「オネエ言葉」で話し、こんな人物と描写されている。

金融庁検査官の黒崎俊一は、鼻持ちならないエリート臭をぷんぷんさせ、集まった銀行員を小馬鹿にしたような目で見つめていた。育ちがいいのは見てもわかる。だが同時に、心のどこかがひん曲がっていることも見ただけで分かった。<中略>
明るい色のスーツを着て行員たちを前にしている姿はどこか置物のようでもあり、世間知らずのお坊ちゃまがそのまま大人になったような童顔である。

『オレたち花のバブル組』 第4章 金融庁の嫌な奴

この役に、片岡愛之助を連れてきたのは物凄い慧眼だ。
若いころは女形もやっていた上方歌舞伎のホープにとって、あの手の演技は「お手の物」だろうと思う。

なお、原作の「大阪編」では、国税庁は登場するものの、黒崎はまだでてこない。
原作者も、その時点ではまだ、このキャラクターを造形できていなかったのだろう。
ドラマでは、これを、半沢のライバルとして一貫した登場人物に仕立て上げている。

このように、より劇的に仕上げるために細部に設定を変えているところはいくつもあって、ドラマの大阪編で壇蜜が演じた「東田の愛人の美樹」は、あんなに重要な役回りではない。
東田の隠し口座の情報を半沢に渡すのは彼女ではないし。

妻の花のキャラクターも手が加えられていて、原作の半沢夫妻は、あんなに「甘い」感じではない。

かつて大学の後輩だったときにはしおらしかったのに、いつのまにか偉そうになり、いまや子供を人質にして、半沢のことより自分たちの都合を優先させる女である。半沢が出世して高給を維持し、「あなたのご主人すごいわね」といわれればそれで満足という、浅い考えも透けて見えるから腹が立つ。

『オレたちバブル入行組』 第2章 バブル入行組

まあ、全般にこんな感じで、原作の半沢にとっては、家も必ずしも安らぎの場所ではなく、家で安らげないからこそますます外に出て行って派手に戦うような、ちょっとハードボイルドな男なのだ。
いやあ、男はつらいねえ。

そのほかにも、羽根専務が男性だったり、設定変更の中でも最大の「違い」は、父親と大和田との関係である。
原作では、半沢の父親は健在で、たしかにかつて銀行に散々な目に合わされたことがあるものの、そのとき担当だった銀行員は「大和田」ではなく「佐々木」。
原作では、佐々木は、同期の出世頭だった近藤をメンタル不調に追いやった秋葉原支店長でもあった、という設定で、こいつに対する復讐、そして「衆人環視の場で土下座させる」という話は、ドラマで言うところの大阪編で完結してしまっている。

この設定の違いは何を意味するのか。

ドラマ『半沢直樹』の魅力として、劇画的な演出と、時代劇を思わせるような勧善懲悪のストーリー、ということが、あちらこちらでいわれているが、「大和田常務は半沢の父を死に追いやった悪人である」という設定こそが、このドラマを「時代劇」のフォーマットに落とし込んだ最大のものだろうと思う。
この設定を付け加えることで、「あだ討ち」という側面が加わる。
こうなるともう、時代劇どころか、歌舞伎のフォーマットだ。
そりゃ、片岡愛之助市川中車、じゃなかった、香川照之の、テレビドラマとしてはやや規格外の「大きな芝居」がはまるわけである。

そう考えると、これまた原作にはなかった「半沢と近藤が体育会剣道部出身」という設定が加えられているのも、合点がいく。
彼らは「武士」なのだ。
(そして、この「剣道部出身」という設定だからこそ、何箇所か「立ち回り」のシーンが設定できたわけだ。大阪編最後の東田を追い込む立ち回りなんかは、時代劇のクライマックスそのまま、ともいえる)。

では、「あだ討ち」という動機に支えられているわけではない、原作の半沢が戦い続ける意味は何なのか。

原作はタイトルに「バブル」という言葉が繰り返し使われていることからも分かるように、「バブル」とはなんだったのか、そしてバブル崩壊によって銀行はどう変質したのか、そして銀行とは本来どうあるべきなのか、という問題意識に支えられた経済小説としての側面も色濃く持っている。

シリーズ第1作『オレたちバブル入行組』の冒頭は、バブル期の超買い手市場の就職戦線の描写から始まる。
人材を確保するために、内定の決まった大学生に「拘束」と称し、カネを渡してディズニーランドに遊びに行かせていたという、今となっては何かのおとぎ話としか思えないような時代。
その時代、銀行に就職するということはつまり「一生を保証されること」だと信じられていたわけだが、もちろん、そんな時代がいつまでも続かなかったことは周知の通り。

銀行はもはや特別な組織ではなく、儲からなければ当然のようにつぶれるフツーの会社になった。銀行が頼りになったのはせいぜいバブルまで、困ったときに助けてくれない銀行は、とっくに実体的な地位を低下させ、企業にとって数ある周辺企業のひとつに過ぎなくなっている。

『オレたちバブル入行組』 第4章 非護送船団

そんなフツーの会社になった銀行で、半沢が目指すものは何なのか。

正直なところ、半沢は、銀行という組織にほとほと嫌気が差していた。古色蒼然とした官僚体質。見かけをとりつくろうばかりで、根本的な改革はまったくといっていいほど進まぬ事なかれ主義。<中略>
もうどうしようもないな、と思う。
だから、オレが変えてやる――そう半沢は思った。
営業第二部の次長職は、そのための発射台として申し分ない。手段はどうあれ、出世しなければこれほどつまらない組織もない。それが銀行だ。<中略>
いまや銀行は世の中に存在する様々な業態のひとつである。見る影もなく凋落した銀行という組織に、かつての栄光を重ねることは無意味だが、まったく逆の意味でこの組織を自らの手で動かし、変えてみたいという半沢の思いはかえって募った。

『オレたちバブル入行組』 終章 嘘と新型ネジ

どうやら、原作の半沢は、武士というよりはもう少しドライな野心家のようでもある。


さて、そんなこんなで、ドラマのほうもとりあえずの幕は閉じたわけだが、ちと最後の「対大和田」のシーンのドラマティックに焦点を当てすぎて、やや、最後が説明不足のキライがありますね。
それに、原作のほうがほろ苦くも味わい深い。

結局、行内融和を掲げる中野渡頭取が、大和田がコテンパンにやられたことに反感を持つ勢力の不満を抑えるために、半沢は出向させられたわけだが、原作では、人事部長の伊藤と営業二部長の内藤が、半沢にその辺の説明をすることになっている。

「まあ君も知っての通り、当行もいろいろあるのでね、やはり行内融和を考えるとそうしたほうがよかろうということで、いま内藤部長とも意見が一致した」
「君は本当によくやってくれた、半沢」
半沢の視線にさらされ、苦りきった内藤が声を絞り出した。「だが、政治力の点で私も少々力が及ばないところがあったようだ。すまない」
<中略>
「戻ってこい、半沢」
伊藤を遮って、内藤がいった。「いや、オレが必ずお前を引き戻す。それまでおとなしくしておけ、雌伏の時だ」
おいおい。
半沢は黙って上司たちを見つめながら、胸中でつぶやいた。
あんたたちは何一つ、責任を取るわけでもないじゃないですか。全てはオレ一人におしつけようという話かよ――と。

『オレたち花のバブル組』 第8章 ディープスロートの憂鬱

そして、子会社の証券会社に出向した半沢の活躍は、自作『ロスジェネの逆襲』で描かれることになる。

ロスジェネの逆襲

ロスジェネの逆襲

ここまでの半沢は、バブル世代として「すき放題やってきた団塊世代の後始末をさせられている」という思いを心のどこかに持ってワケだが、今度は「ロスジェネ世代」、つまり「やすやすと就職したバブル世代」に恨み骨髄の世代の部下と手を携えながら、“敵”と戦っていくことになるのである。

ま、あのドラマの終わり方を見る限り、堺雅人が『リーガル・ハイ』の撮影を終え次第、続編でドラマ化されることとおもうが。

そして現在、半沢直樹は、週刊ダイヤモンド連載『銀翼のイカロス』で、複数の労働組合やプライドばかり高く当事者意識のない経営陣でメタメタになっているナショナルフラッグキャリア「帝国航空」の再建のために戦っている。
このブログの中の人は、連載をちゃんと追いかけているわけではないが、政権交代を終えたばかりで大向こうやマスコミ受けばかり気になる女性大臣(中身は、あの「口だけ」国土交通大臣、外見は、あの「仕分け担当」の女性議員がモデルというもっぱらのウワサ)に振り回されていたりするらしい。
で、ドラマの反響をみた原作者は、黒崎氏も登場させているとか。

ま、島耕作ばりに「半沢頭取」誕生までシリーズが続くのかどうか。
ゆるゆると、ウオッチしていきたい。

渡邉美樹氏のサクセスストーリーに注目が集まり始めた頃 ―― 高杉良著『青年社長』について

このところ、一部週刊誌とネット界隈で、やたらとこの本の主人公のお名前を拝見するような気がするので、さっと読み返してみようかと思ったわけである。
主人公の名は 渡邉美樹。

青年社長〈上〉 (角川文庫)

青年社長〈上〉 (角川文庫)

参院選比例代表候補者としてその名が報道されて以来、ワタミのブラックぶりがどうだどか、氏が理事長を勤める「郁文館夢学園」で反省文100枚を強制して退学者続出とか、株主総会の召集通知や宅配サービスの顧客への挨拶状に選挙出馬の挨拶を載せるのは公職選挙法的にどうなのかとか、株主総会と、その後に開かれる『ワタミ感謝祭』なるイベントが、なんかちょっと独特だとか、まあ、いろいろネタが出てくる、出てくる。
(個人的には、両国国技館で行われていたという『ワタミ感謝祭』の総合司会が宝田明、ゲストが北村弁護士だった、という話がちょっとツボ。
宝田明にとっては「営業」、北村弁護士の場合はもうちょっと複雑な「お付き合い」の要素が含まれていると思われるが、なんていうか、マス・メディアには出てこない芸能界事情が垣間見える気がする)

これだけ「悪評」が溢れていると、多少は、渡邉氏の「良さ」を喧伝する人はでてこないものかと思わないでもないが。
いや、いるところにはいるのか。
ワタミ感謝祭』の会場とか。

いや、かつては、そうではなかった。
当然といえば当然で、なにしろ一代であれだけの企業グループを築いた成功者なのだから、ビジネス書業界が放っておくわけがない。
「成功者に学ぶ」のが大好きなビジネス書読者というのは、常に一定数が確保されていて、加えてご本人も「自己顕示」がお好きな方のようだから、そこには幸福な需要と供給の関係があったはずである。

本書の単行本の初版は1999年。
ワタミフードサービスが上場した翌年である。
この本のクライマックスも、株式上場。
創業14年にして上場を果たした、あの居酒屋「ワタミ」の創業者のサクセスストーリを広く知らしめたのがこの本・・・といってもいいかもしれない。

一部でささやかれている「本人が高杉良に直談判して書いてもらった」というウワサの真偽は知らないけれど、基本的には、渡邉氏がいかに凄い経営者かを褒め称える内容である。
この作者の経済小説の中には、企業や組織の問題点や腐敗を題材にしたものも多いけれど、けっしてそういう内容ではない。

もちろん、あくまでも小説なので、全てが真実というわけではなかろうが、しかし出来事の時系列や、資料で確認できる事実関係については、ほぼ真実と考えてよかろう。

(なお、あまり詳しく書くわけには行かないが、このブログの中の人は、「高杉良の小説のモデル」となった企業に勤めていたことがある。しかも、その企業の「不祥事」を題材にした方で・・・。
末端の平社員だったので、不祥事の全体像など知る由もなかったし、その小説で描かれた不祥事の「解釈」が真実なのかどうかを判定する材料も持たないのだが、一部「モデル」を知っている人物のキャラクター付けなどは、ああ、外部から取材して、この程度までは書けるものなのだなあ、と、思った。
当時の上司は、「あんなもの荒唐無稽だ」といっていたけれど)

10歳で母と死別し、その後、父の経営する会社が倒産するという、少年のうちになかなかにヘビーな体験をもった美樹少年は、小学校の卒業アルバムに「社長になる」という夢を記す。
そして、明治大学商学部を卒業後、ミロク経営で「貸借対照表」の読み方を学び、半年で退社。
開業資金を貯めるため、佐川急便のセールスドライバーに転職する。
物語は、その面接のシーンから始まる。

「明治の商科をでて、佐川急便で宅配便のSD(セールスドライバー)をやるのはどうしてなの。SDもサラリーマンだけど」
「お金が欲しいからです。月収43万円は魅力があります」
「高額な月収に見合って、SDの仕事はきついよ」
「覚悟してます。体力には自身があります」

大卒に勤まるものか、といわれながらも、一日20時間近い激務をこなし、無事、1年間で300万の開業資金を貯める所から、このサクセスストーリーは展開していくわけだが、ここで、以前読んだときには考えなかったことがふと頭によぎった。

本書で読む限り、当時の佐川急便SDの労働環境というのは、とんでもない。
一日20時間の勤務は当たり前。
休日は月に二日。
今、名のある大手企業がこんなことをしたら大変だろう。

ただし。
学歴も問わず、身元保証人も事実上必要もなく、破格の高給を提示していた。
月収43万円。
今から30年前の話である。
(まあ、額面なので、手取りは36〜7万円だが、それにしても、中卒でそんな給料を提示してくる会社はそんなにあるまい)

だからこそ、渡邉氏も「夢を実現するための1年間」をここで過ごしたわけだが、はたして、今、氏の経営する会社は、そんな「若者の夢の実現」を後押しする場になっているのだろうか。
いや、それは「お金」という形でなくても一向かまわないだろうが。

本書の最終章は、渡邉氏が全社員に向けて、メッセージを書くところで終わる。

他社を意識するな。われわれの敵はわれわれ自身であり、昨日のワタミフードサービスに勝ち続けるのみである。素晴らしい人材が集まっている。社会的信用も高まっている。いまこそチャンスなのである! 天狗になっている暇などない。“天狗になってたまるか”。
 経営目的の広く深い達成のためのチャンスを無駄にしてはならない。いまこそ謙虚に神様が応援したくなるような、ひたすら努力あるのみである。わたしの思いが君の心に届くことを祈る。

殴りつけるように一気呵成に書き終えて、渡邉は「天狗になってたまるか」と、大きな声でひとりごちだ。

大英帝国とグローバル企業と“抜け穴”について ― 『タックス・ヘイブン ― 逃げていく税金』志賀櫻著

なんだか、三題噺のようなタイトルになってしまったが、今回のお題はこの本。
どちらかというと、全体を紹介するというより、最近ちょっと個人的に気になったトピックを中心にまとめていこうと思う。

あまり詳しくここに書くわけにはいかないのだが、このブログの中の人は、仕事でFACEBOOKの広告をほんの少しばかり扱っている。
広告出稿用にアカウントを登録して、クレジットカードかPayPalアカウントで支払いをすると、請求書がネットにアップされるのだが、これが「Facebook Ireland Limited」の名義となっている。

もちろんFacebookはアメリカの会社。
なぜ請求書がアイルランド法人から? という疑問が湧いてくるわけだが、実は、アイルランドというのは、いわゆるグローバル企業にとって、おなじみの国のようで、ちょっと検索すると、こんな記事がヒットしたりする。

報告書によると、アップルは、2009年から12年に740億ドル(約7兆5000億円)の利益を米国から海外に移転した。そのうち440億ドル分(約4兆5000億円)について課税を逃れたとし、「アイルランドを実質的なタックスヘイブン租税回避地)として活用している」と批判した。

「米アップル、巨額課税逃れ…『住所ない』手法で」
(2013年5月22日01時08分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20130521-OYT1T01021.htm

ちと前の記事だが、その「手口」については、こんな解説がでていた。

タックスヘイブンを上手く利用することでグーグルは大幅な節税に成功している。アイルランドに二つの会社を持つ節税策を「ダブルアイリッシュ」、途中にオランダを経由させることを「ダッチサンドイッチ」と呼ぶ。

「グーグルの節税策 ダブルアイリッシュ、ダッチ・サンドウィッチとは?」 
(2013年1月23日 11時24分 大元 隆志)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/ohmototakashi/20130123-00023185/

上記の記事にFACEBOOK社は登場していないが、まあ、似ていることをやっているのだろうな。

イギリスのキャメロン首相は、アメリカのグローバル企業が税金を払わないことにえらくご立腹のようである。

節税に熱心な米企業が低税率国を活用して海外拠点での納税を抑える手法が論議を呼んでいる。法人税率が高く“狙い撃ち”されている英国は、米側に憂慮を表明。緊縮財政を強いられる他の欧州各国も不満を募らせており、欧米間の火種となりつつある。

 「私はビジネスを尊重する政治家だが、両国の経済を開かれたものにするためにも、すべての企業にきちんと納税させるべきだ」

 13日にホワイトハウスで行われた米英首脳会談後の記者会見。キャメロン英首相は米企業の租税回避に不快感を示し、「この悩みの種に取り組むことで大統領と合意した」と強調したが、対照的にオバマ大統領は直接の言及を避けた。
「スタバ、グーグル…米企業の租税回避が論議、怒る英首相、欧米間の火種に」
(2013.5.14 19:33 MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130514/amr13051419390013-n1.htm

こうしたキャメロン首相の怒りに呼応して、ロンドンでは市民によるデモなどもあったらしい。

まあ、その怒りはもっともでタックス・ヘイブン(ちなみに、この「ヘイブン」を「天国」と勘違いしている人が多く、このブログの中の人も勝手にそう思っていたが、これは間違い。haven=避難港 もともとは嵐のときに避難する港の意味)を利用して納税額を圧縮するなどという芸当は、なかなか庶民にできるものではない。

そして、タックス・ヘイブンのせいで税収が減った国家がどうするかといえば・・・まあ「取れるところから取る」ということになるのだろう。
そのとき狙い撃ちにされるのは中間層以下の庶民というのが、まあ、通り相場というヤツである。

タックス・ヘイブン、というと、カリブ海などにある産業のない島が、税率を極度に下げることで海外企業を誘致し、生き残りを図る・・・といったイメージを持っている人が多いのではないだろうか?
企業誘致といっても、名目上の本社がおかれているだけで、いわゆる「ペーパーカンパニー」がビルに何十社も入っていて・・・。

実際、そういうタックス・ヘイブンも存在するのだが、それだけのイメージで考えていると、ことの本質を見誤る。
(そもそも、冒頭出てきた「アイルランド」は、そういったタックス・ヘイブンとは大分異なった存在である)。
それを、分かりやすく解説してくれるのが、今回とりあげた、この本、というわけである。

そもそも、本書によれば、現在のタックス・ヘイブンの問題点は「極端に税率が低い」ことにあるわけではない。

OECD租税委員会が1998年に公表した「有害な税の競争」報告書が示したタックス・ヘイブンの基準は、以下の4つだった。

1.まったく税を課さないか、名目的な税を課すだけであること
2.情報交換を妨害する法制があること
3.透明性が欠如すること
4.企業などの実質的活動が行われていることを要求しないこと

その後、判断基準の見直しがすすめられていった結果、現在はどうなっているか。

興味深いことに、最後にたどり着いた判断基準では、?と?の基準だけが重視されており、?と?の基準はほとんど無視されている。<中略>
OECE租税委員会は、タックス・ヘイブンの真の問題は、租税や金融取引
に関する情報が何もでてこないという、その不透明性、閉鎖性にあると指摘したのである。

そう、単に税金が低いことではなく、タックス・ヘイブンに一度入ったが最後、そのお金が闇に消え、マネー・ロンダリングに利用されたり、テロ資金の隠し場所になったりという側面こそが、問題なのである。

そして、著者はロンドンの金融センターである「シティ」が、ある意味で「最大のタックス・ヘイブン」であると指摘する。

シティには「オフショア」の金融市場が設置されている。
オフショアとは、外外取引(シティであればイギリス以外の国同士の取引)を行う市場のことであり、イギリスではこうした市場の規制が極めてゆるい。
そして、その背後には「王室属領」といわれるタックス・ヘイブンを抱えている。マン島ジャージー島、ガ−ンジー島といった島々は、王室の直接の領土であり、いわゆる「イギリス政府」の領土ではない。
そして、独自の法律、税制を持っているのである。
さらに、英領ケイマン諸島やバージン諸島といったタックス・ヘイブンも抱えている。

シティは、こうした構造の上で、世界の金融センターとしての地位を確保している。
つまり、シティに集まったマネーが規制のゆるい市場で取引され、そして、タックス・ヘイブンに吸い込まれていく構造こそが、金融立国としてのイギリスを支えているのであることは、想像に難くない。

実際、国益のために自国のタックス・ヘイブンを守ろうとするイギリスのエピソードは、本書にいくつも登場する。

これは筆者の経験にもとづく皮膚感触だが、BIV(ブリティッシュ・バージン・アイランド)の背後にはMI6(英国情報部)がいるように思われる。一九九九年、マネー・ロンダリングを取り締まる国際会議のファイナンシャル・アクション・タスクフォース(FATF)において、英国大蔵省がBVIを擁護しようとする態度が気模様であって、どうにも合理的説明がつかないのに、ブラックリストから落とされてしまった。

ファイナンシャル・アクション・タスク・フォース(FATF)の会議では、旧宗主国が植民地であるタックス・ヘイブンの擁護に回ることがある。英国の大蔵省などはその点において露骨である。あるときなど、英大蔵省は、バハマの擁護にまわるあまり、常識にも悖る発言があった。筆者は会議の席上でそれを厳しく批判した。

英国はなぜそこまでムキになるのか。それは、シティが金融で英国のGDPの多く(二〇〜三〇%ともいわれる)を稼ぎ出し、英国の租税収入の約一〇%を締めているためである。また、英国はシティが存在することによって国際社会における発言権を確保している。つまり、シティの権益に直結するタックス・ヘイブンを守ることは、英国の国益を守ることになるのである。

こうした背景を知った上で、先に引用した複数の記事を読み返してみると、大分印象が変わってくる。
確かに、アメリカ企業の多くは、複数の国の税制を上手く抜け道に利用して、いかに税金を納めなくてすむか、ということに、血道をあげているようではあるが、一方でそれを避難するイギリス政府がやっていることというのは???

いや、その狡猾さこそが「大英帝国」の強さなのだといってしまえば、そうなのだろうが。

・・・というわけで、このブログでは「タックス・ヘイブンとしてのイギリス」という側面だけを、ちょっと抜き出してみたけれど、本書は、現代の国際経済の「ブラックホール」ともいうべきタックス・ヘイブンの全般に目配りの効いた本。
筆者は、大蔵省から警察庁に出稿し、「タックスヘイブン退治」の最前線で活躍してきた人物だけに、臨場感のあるエピソードも、国際金融/国際政治の最前線の底知れぬ恐ろしさが垣間見れる本でもある。
そして、本来負担されるべき税金が闇に消えていくことに対する心のそこからの怒りが伝わってくる。

にしても、この著者。1949年生まれ、1970年司法試験合格、1971年東大法学部卒・大蔵省入省って、凄い経歴だな。
そして、でてくるエピソードがかなりな武闘派。相当な人物ではある。

 作品の背後にあるものを感じてみる ― 伊藤計劃著『虐殺器官』について

その手の話に興味関心のある方からは今頃何をいっているのか? といわれるかもしれないが、最近読んだ伊藤計劃の『虐殺器官』が面白かった。

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

9.11後、テロとの戦いが、テクノロジーによる徹底した管理社会を作り上げることで沈静化に向かう一方、発展途上国では内戦や虐殺が劇的に増加した近未来。
米軍に所属し、そうした状況の原因とされる国家の指導者など、“危険人物”を暗殺することを任務とする主人公。
やがて、彼は、虐殺が発生する地域には必ず、一人の男の影があることを知らされ・・・。

ジャンルとしては、「SF」であり、作中には、たとえば「人口筋肉」を使った飛行機やら、体に埋め込まれたIDタグやら、戦場で適切な反応をとれるように「心理的障害」を取り除く「前頭葉局所マスキング」の技術など、さまざまなガジェットや設定が次々と登場する。
しかし、作者の意図はそうしたSF的想像力を用いて世界を構築することではなくて、あくまでもそれは、物語を展開させるための「小道具」のようにも見える。


まあ、その分、バリバリ本格SFがお好きな人からは、物足りないという声もあるようですが。

国家とか戦争とか、言語と人間とか、母と息子とか、読み取れるテーマが重層的で、かつ謎解きの要素で話を引っ張っていくミステリー的要素もあり、そりゃあ評判になるよね、という感じである。

うじうじと考え続ける主人公の「厨二病」ないし、「セカイ系(って、この言葉、いまひとつよくわかっていないのだが)」な感じが好きではない、という人もいるようだが、それも含めて魅力、だろう。

なんだか、大味な説明だな。
まあ、あんまり、色々書いてしまうと、“ネタバレ”をしてしまいそうで、こんなブログでオチをしるくらいなら、是非、原本を味わって欲しいと切に願うところでもあるし、緻密な書評が欲しい方は、すでにネットにいくらでもあふれているので、google先生に聞いてみていただければと思うわけだが。

もう一つ、この小説の魅力(あるいは、見方によっては“鼻につくところ”)は、作者が膨大な小説やら映画やら、あるいは時事問題やらの知識をもっていて、それをたくみに結びつけたり引用した上に、卓越した想像力(創造力)をもって、物語を構築していることだろう。
そうすることで“構築された近未来”とリアルが結びついてくる。
もちろん、そういった「引用元」を知らなくても十分楽しめるように話は構成されているのだけれど、一方で「元ネタ」が分かる人にとっては、「ああ、あれか」という楽しみ方もできるわけだ。

そこで、以下、ごく一部ですが、「ああ、あれか」と楽しんでみることにします

だから、ぼくらは海兵隊の長距離偵察隊や海軍の陸海空特殊部隊といった特殊コマンドほかの部隊からは、蔑みとともに「濡れ仕事屋」(ウエットワークス)と呼ばれることがあった。この名前は冷戦時代から暗殺仕事をさす隠語として、ジョン・ル・カレグレアム・グリーンの小説で使われてきた

ジョン・ル・カレamazonで検索すると、60件もヒットするスパイ小説の大御所。

グレアム・グリーンといえば、映画『第三の男』の原作者ってのが一番有名なのですかね?
第三の男 [DVD]
オールド映画のファンにはあまりにも有名だが、「イタリアはボルジア家30年の圧政の下にミケランジェロ、ダビンチやルネサンスを生んだ。スイスは500年の同胞愛と平和で何を生んだか。ハト時計だとさ」というアンチヒーロー、オーソン・ウエルスのセリフは、かっこいいい。


名セリフといえば、これもそうですね。

ですから、仮に敵地で捕らえれた場合にも―」
「『当局は一切関知しないから、そのつもりで』だろ、フェルプス君」

はい、『ミッション・インポッシブル』ですね。
いや、再放送(再々放送?)のTVシリーズになじみがある身としては『スパイ大作戦』といったほうが、すっと頭に入ってきますが(笑)。
スパイ大作戦 シーズン1<トク選BOX> [DVD]


戦闘前に行われるカウンセリングと脳医学的処置によって、ぼくらは自分の感情や倫理を戦闘用にコンフィグする。そうすることでぼくたちは、任務と自分の倫理を器用に切り離すことができる。オーウェルなら二重思考と呼んだかもしれないそれを、テクノロジーが可能にしてくれたというわけだ。

説明なしに「オーウェルなら・・・。」と言いっぱなしになっていますが、『1984年』や『動物農場』のジョージ・オーウェルですよね?
一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

・・・と思っていたら、後半では

オーウェルは「動物農場」でこう書いた。すべての動物は平等である、一部の動物はさらに平等である。自由を持つ者が、その自由を守るために人々を監視する。

と、そのまま引用されてました。

次は、多分、御好きな方なら「ああ、あれね」と膝を打つところか。

ウィリアムズは鍵を吹き飛ばしたソードオフをそのまま突きつけ、
「まさかのときのスペイン宗教裁判だ」

SWDという呼び名は、シールを張られた人間たちが、勝手に特定方向へ歩ませようとするシールの作用と、それに抗おうとする意志のコンフリクトによって、なんとも味わい深い歩き方になってしまうところから来たものだ。つまり何の略かというと、シリー・ウオーク・デバイス(バカ歩きデバイス)。

「まさかのときのスペイン宗教裁判」「シリー・ウオーク」ともに、どちらも出典は、イギリスの伝説的コメディ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』のネタ。
「スペイン宗教裁判」のほうは、(英語はもちろんのこと)日本語のウィキペディアにも項目が立てられているくらいで、いやあ、パイソンの影響力は大きいなあと思った次第。
モンティ・パイソンは、かなり作者のお気に入りらしく、他にもいくつかの引用がされている。



他にも作中で引用・参照されている映画は、この手のものが好きな人にとって、ある意味「いかにも」というかベタな選択という感じもある。

たとえば、

向こうの世界はどんなんだ。やっぱり虐殺された人々の死体が一面に広がっているのか、と。まるで森の向こうはカーツ大佐の王国で、僕等はそこから帰ってきたウィラード大尉だとでも言いたけだ。

映画『地獄の黙示録』ですね。
地獄の黙示録 特別完全版 [DVD]


そして、これ。

だれか現代音楽に造詣が深い兵士が名づけたのか、いつの間にか広がったんだそうだ。「2001年宇宙の旅」のトリップ場面でかかっていた曲のコンポーザーの名前らしい。

ま、作者にとってはずせなかったのでしょうね。これ。
2001年宇宙の旅 [DVD]
『2001年』というのは、ワケの分からない映画だが、その中でも「トリップ」の場面はワケの分からないなりに印象深いシーンで、公開当時はLSDでトリップしたときの感覚にも近い映像だとも評されたらしいけれど、なんか、音楽というか、「特殊な音響」のようなものが流れていた記憶がある。



はずせなかったといえば、多分、というか、絶対これもそうなのだろう。

それら溢れかえった文字情報が、百塔の街であるプラハの景観に、香港のネオン群か、リドリー・スコットが想像したロサンゼルスのような混沌を付け加えてしまっていた

ブレード・ランナー』ですね。アンチ・ユートピアの映像化のパイオニアみたいな映画である。
ブレードランナー 最終版 [DVD]

このブログを書くためにいくつかネタを検索していたら偶然みつけたのだが、先述した『地獄の黙示録』の原作であるジョセフ・コンラッド『闇の奥』をamazonで検索してみたら、「一緒によく購入されている商品」として、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が出てきた。
ブレード・ランナー』の原作である。
映画という共通項がなければ、なかなかに結びつかない2冊なわけで、つまり、この辺の映画に興味を持つ人たちの関心領域ってにているってことだろう。

リドリー・スコットといえば、直接の言及ではないのだが、こんなのもあった。

「わたしも九三年のモガディシュにいたのだよ。わたしはデルタの一員だった。ブラックホークが墜落する無線を、バカラ・マーケットで聴いていたからね。セイルズさんの言う『失敗した先輩』のひとり、だよ」

これは、1993年当時、米軍がソマリア内戦に介入した際に、首都モガディシュで軍用ヘリコプター「ブラックホーク」が撃墜されて作戦に失敗し、結局、ソマリアから撤退した事実を踏まえたものなのだが、このときの戦闘を、リドリー・スコットが映画化した『ブラックホーク・ダウン』という作品がある。
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賭けてもいいが、作者は、これ見ているに違いない。


そして、この「ブラック・ホーク」の件もそうなのだが、単に映画や小説を引用するだけではなく、90年代の時代背景をきちっと押さえながら、「近未来」を創造しているところが、この本の説得力を増している、と感じられる。

たとえばこれ。

そうだ。国家のイメージはPR会社によって大きく左右される。アフメドはオックスフォードで国際政治を学んでいたから、ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争に置けるようなPRの必要性を強く認識していた。

ボスニア紛争におけるPR会社の役割については、ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争 (講談社文庫)というノンフィクションの名著がある。
ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争 (講談社文庫)
興味がある方は、是非お読みいただきたい。現代の戦争は情報戦でもあるということ、そして、それを「ビジネス」として営むPR会社の存在に戦慄させられる。


こんなのも、そうした「時代背景への目配り」の一つだろう。

インド復興に関わっている企業はユージーン&クルップスだけではない。戦争犯罪者を収容する刑務所を運営しているのはオランダ資本のパプティノコン社とだし、土木関係は昔ながらのハリバートンがやっている。

昔ながらの「ハリバートン」。
ブッシュ政権下で副大統領を勤めたディック・チェイニーが経営に深くかかわり、その一方で、イラク戦争後の復興事業やら、米軍のためのケータリングなどで稼いでいる実在の会社。
ハリバートン社が、アメリカの貧困層を労働力として戦場の危険地域に送り込んでいる、という話は、堤未果ルポ 貧困大国アメリカ (岩波新書)に詳しく出てくる。

刑務所の運営が「パプティノコン社」というのは、ちょっとあまりに、そのまま、という感じがするけれども。
(参照:wikipedia「パプティノコン」


・・・なんか、きりがないので、この辺にしておきますが、最後にもう一つだけ、気になったことを。
作中の主要な登場人物に「アレックス」という名前の人物がいるのだが、どうしても、これ、『時計じかけのオレンジ』の主人公を思い起こさせずにおかない。

時計じかけのオレンジ [DVD]   時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1)
しかし、この両者の共通点というか、「あの人物をアレックスと名づけた理由」がよくわからない。
深読みしすぎ、というやつだろうか?


というわけで、作品の中にどっぷりつかることをよしとする読書の仕方からは、こういうことをアレやコレやするのは邪道なのかもしれないが、しかし、傑作と呼ばれる作品の背後には、ざっと調べてみるだけでも、これだけ色々なものが埋まっているというのを、たまには感じてみたかったわけです。