「経営」と「経営学」の間 ― 『世界の経営学者はいま何を考えているのか』入山章栄著

気がつくと、だいぶ更新がとどこってしまって、当ブログをご愛読いただいている方には、まことに持って申し訳ない。・・・って、そんな人がいるのかどうか分らないが。

間があいた分を取り戻す・・・というわけでもないが、前置きはさておいて、本の紹介に入ることにする。

世界の経営学者はいま何を考えているのか――知られざるビジネスの知のフロンティア

世界の経営学者はいま何を考えているのか――知られざるビジネスの知のフロンティア

(↑上の画像や書名はamazonにリンクしています)

ひところのブームは去ったとはいえ、日本で経営学といえば、なんといっても「ピーター・ドラッカー」だったりするわけだが、本書で著者は、まず、その「誤解」を解くところから話を始める。

これは確信を持って言いますが、アメリカの経営学の最前線にいるほぼすべての経営学者は、ドラッカーの本をほとんど読んでいません。<中略>
私が確実に言えることは、アメリカのビジネススクールの教授の大半は、ドラッカーの本を「学問としての経営学の本」とは認識していないし、研究においてもドラッカーの影響は受けていない、ということです。

上記の引用の前では、ドラッカーについて「言うまでもなく『経営学の父』とさえ呼ばれる大思想家です」と書かれている。
そう、ドラッカーは、厳密な意味での「学者」ではなく「思想家」なのだろう。
ご本人は、自身の仕事を「社会生態学」と称していたらしいけれど。

著書を読まれたことのある方には分ると思うのだけれど、ドラッカーの本というのは、カッチリしたデータや厳密な科学的分析の上に抽出された「理論」を提示するといった類のものではない。
その意味で「偉大な思想家」なのであろう。

そして、アメリカを先頭に、世界の経営学者が目指しているのは、ドラッカーのような「思想」を説くことではなく、経営学を、他の科学のような学問にすることなんですよ。というわけで、そのお仕事=理論の一端をご紹介しましょう・・・というのが、この本の眼目である。

著者によれば、「理論の構築」を重視するアメリカ流経営学に比べて、日本の経営学者は、一社または数社の企業を丹念に徹底的に分析する「ケーススタディ」を仕事の中心にしていることが多いという。
これは、抽象思考がニガテとも言われる日本人の性に合っているのかもしれないが、それでは「理論」は構築できない。

というわけで、本書の中心部、全349頁中240頁あまりは、現在探求されている経営学の理論が分りやすく紹介されている。
すでに、かの有名な「その内容のいちいちは、「興味ある方は本書に当たってください」なわけだが、一つだけ興味深いものを。
国際経営学の世界で用いられる指標に、マーストリヒト大学名誉教授のホフステットが1980年に提示した「ホフステット指数」というものがある。
これは、世界中のIBMの従業員11万人に質問表をおくって、国民性に4つの次元があることを示したものである。
ちなみに、その次元とは以下のとおり。
●Individualism=Collectivism:個人を重んじるか、集団を重んじるか。(個人主義集団主義か)
●Power Distance:権力に不平等であることを受け入れているかどうか。
●Uncertainty Avoidance:不確実性を避けがちな傾向があるかどうか。
●Masculinity:男らしさ=競争や自己主張を重んじるかどうか。

なお、この指数はその後も改訂が進められ、現在は「Long Term Orientation:長期的視野を持つかどうか」と「Rentraint=Indulgence:自己抑制的かどうか」という次元が追加されているそうだ。
(ちなみに、この指標については http://geerthofstede.nl/ で解説されている)

さて、この指標によると、日本人の個人主義指数は69か国中32位だそうな。
これを高いとみるか低いと見るかは、意見が分かれるところだろうが、著者が言うように、一般に思われているほど「集団主義」の傾向が強いわけではない、とは言えるだろう。
もっとも、アメリカの1位を筆頭に、欧米各国には個人的指数が強い国が多いそうだから、そういった国々と比べれば、十分集団主義的なのだろうが。

この指標をつかって、日本と他の国との「距離」を計算すると、日本に近いのは、ポーランドハンガリー、イタリアなどで、遠いのはオランダやスウェーデンなのだそうだ。
で、韓国や中国と日本の間にも結構距離がある。(ドイツやメキシコのほうが日本に近い)。

・・・と、ここまで読んで気づかれた方もいるだろうが、これって「経営学」なのか? という疑問もわく。
そう、経営学というのは「固有の理論」が少ないので、いろいろと他の学問や統計的手法から、いろいろな手法を借りてこなければいけないのだ。
その主な源流は、経済学、認知心理学社会学の3つなのだそうである。、
これは、経営学というものの歴史が浅いことと関係している。
そりゃそうだろう。
経営学が対象とする「企業」というものの歴史が、他の学問分野に比べれば、ずっと浅いのだから。

さて、こんな感じで「理論」を追いかけているアメリカ経営学だが、著者はその問題点も指摘する。
とにかく論文でより新しく、面白い理論を追いかけ続けることで、多種多様な理論が乱立し(著者は「サファリ化」という言葉を使っているが)、実際の経営と乖離し「実用性」を置いてきぼりにしていくことである。
本書で言う「経営学」は、たとえば「マーケティング」「会計」「ファイナンス」とは別個のものとしてとらえられているのだが、そうした「実学系」の分野と比較するとき、経営学の理論偏重は際立っているという。
そして、膨大なデータで平均的な傾向から理論を分析すれば、「一般的な傾向」は分るかもしれないが、往々にして、「優れた企業」というのは、そういう「一般的な傾向」からは外れているからこそ「優れている」のではないか、という疑問が湧いてくる。

そうして疑問に対してはまた、経営学への「複雑系」の適用とか、いろいろな試みがされているらしいけれど。

まあ、ものすごく大雑把なまとめ方をしてしまえば、経営学というのは、会社経営という個々の現象にたいする「物理法則」みたいなものを目指しているのだろうと思う。
で、たとえば、そういう「法則」をそのまま使っても、たとえば「重力の法則」をしっていてもすぐ飛行機を作ったりロケットを飛ばしたりできるわけではないわけで、そこには「物理学」に対して「工学(エンジニアリング)」が必要になる。
もっとも、まだまだ、経営学は「法則」を作るところにまでは全く達していないわけで、そもそも、それが可能なのかもよく分らないが。

というわけで、この本、知的なフロンティアの一端を垣間見るには面白いけれど、「明日すぐ役立つ」様なものを期待すると、完璧に裏切られます。
それでも、なんとなく面白そう、と思った人だけ読めばいい本なのかと。

なんだか、ほめてるんだかなんだか分らない結論になってしまったな。
いえ、面白いと思いますよ。興味ある方には・・・って、当たり前な話ではあるのだが。

仕組みで勝つということ ―『 監督・選手が変わってもなぜ強い? 北海道日本ハムファイターズのチーム戦略』 藤井純一著

実は先々週にこの本についてブログを書こうとして、書き終わり寸前に内容を誤って飛ばしてしまい、そのうえ先週は体調を崩してしまい、もしかしたら、よくよくこの本と縁がないのかもしれないが、3度目の正直を目指して書いてみることにする。

その本はこちら。

監督・選手が変わってもなぜ強い? 北海道日本ハムファイターズのチーム戦略 (光文社新書)

監督・選手が変わってもなぜ強い? 北海道日本ハムファイターズのチーム戦略 (光文社新書)

(↑上の画像や書名はamazonにリンクしています)

なお、あらかじめいっておくが、このブログの中の人は、日本人男性としては野球の知識に乏しく、「社会人の最低限のたしなみ」程度にしかプロ野球について語れないので、あくまで本を読んでのまとめとして語らせていただくことをお許しいただきたい。

さて、この本の著者・藤井氏はどういう方で、この本はどんな視点から書かれているのか。

私はサッカーではセレッソ大阪大阪サッカークラブ株式会社)、野球では日本ハムファイターズ(株式会社北海道日本ハムファイターズ)の代表取締役を務めるという、珍しい経歴を持っています。その中で、日本のスポーツビジネスの優れている点、劣っている点を知ることができ、私なりにそれらを分析し、改善する中で、いくつか「気付いたこと」がありました。
 それらの気付いたことを一言で言えば、
 スポーツビジネスとは、他のビジネスとなんら変わりがない
 ということでした。

経歴について簡単に補足すると、藤井氏は、日本ハム(球団ではなく親会社)の営業畑から、同社も出資したセレッソ大阪に出向、その後、日本ハム(球団)の事業本部長から社長を務め、現在は近畿大学経営学部の特任教授。
札幌移転後の日本ハムを盛り立てた立役者でもある。

本書は実は、題名に「若干の偽りアリ」で、日ハムがなぜ強いのか? について、それほど紙幅を割いているわけではない。
あ、でも、球団経営の黒字化とか、そういう意味での「なぜ強いのか」について語っているともいえるわけだが。

日本のプロ野球球団は、基本的に、昔から「球団の盟主」を自認している某球団など、一部を除いては、「ものすごくお金のかかる広報活動」のような位置づけで、単体でビジネスとしては成立していなかった。

私はサッカーと野球のチームしか見ていませんが、フロントスタッフの“経営の意識の足りなさ”の原因は、まず第一に「予算がない」ということに起因していると思います。野球界に入ってきて、一番驚いたことです。
 選手年俸や球場使用料などのコストが先にあり、後は積み上げ方式で決まっているのです。球団独自の売上げはたったの40%であり、あとの60%は親会社からの補填でまかなっていました。
 その結果どうなるでしょうか。
 フロントスタッフの多くは、親会社を見て仕事をするようになります。
 親会社のご機嫌伺いさえしていたら、自分たちの身の保証はなされるわけですから、当然といえば当然なのかもしれません。

こうした組織を改善するにはどうするかといえば、それに特効薬はないわけで、「組織のフラット化」「ビジョンの設定」「権限のフラット化」「フロントはファンを見よ」といった話になってくる。
ファンとはつまり「顧客」と読み替えてもよかろう。

本書では、こうした「大枠」の話に続いて、「試合収入」(=チケット収入)、「放映権収入」、「スポンサー収入」、「マーチャンダイジング収入」(=グッズなど)と、プロ野球球団の収入の構造と、それぞれの分野での日ハムの取り組みについて語られていく。
具体的な詳細に興味がある方は本書をお読みください、なわけだが、たとえば、試合収入でいえば、日ハムでは「KONKATU(婚活)シート」なんてのもやっているらしい。
男女同数、隣り合わせに座るようなイベントを開催。女性席が発売初日に完売し、二日間で600席の販売に対して、初日28組、二日目34組のカップルが成立したのだという。
何をもって「成立」というのか詳細な記載はないが、実際、婚約したカップルも出て、そのお二人には始球式の権利をプレゼントしたそうだから、それなりに効果の高いイベントだったのであろうと推察される。

さて、「なぜ強いか?」という部分に一番関連するのは、日ハムが作った「ベースボールオペレーションシステム」だろうか。

これは、映画「マネーボール」で有名になった、大リーグ発祥の、ITを活用して選手やドラフト候補者のデータを数値管理するシステムである。
2億円以上を投じて構築されたという。

このシステムの完成以降、チーム統括本部は、12球団に所属する一軍選手、およびドラフトの対象となりうる高校生、大学生、社会人など総勢850人について、スコアをはじめとするデータの数値化に成功しました。

そして、ドラフト指名やチーム編成等に、このデータは存分に活用され、そのことがまた、健全な権限の明確化を支えている。

ファイターズのチーム統括本部は、選手のスカウトやトレード、監督やコーチの任命権などの全権をもっています。チーム統括本部が決めたことは、たとえ社長やオーナーでも覆すことはできません

このような権限をきちっと握ることができるのも、統括本部が、きちっとしたシステムに基づいて判断しているという信頼感が組織全体で共有されているからでもあろう。
その上で、選手の力を適切に見極め、「育成によって勝つ」というのが、現在の日ハムの方針である。

そんなチームで監督に求められるものは何か。

ファイターズの方針は一貫しています。それは、育成で勝つという方針を理解してくれた上で、
「ファンサービスができるかどうか」
という一点です。

そして選ばれたのが、栗山監督だったというわけである。

本書を通してみると、日ハムというチームが合理的なシステムにのっとって人を生かす組織を目指しているのだろうなあ、ということが、よく分かる。
そして、なによりも「成果が出ている」ということが、強い説得力を持っている。

ところで、本書を読んでいくと、時折でてくる著者の「思い」がなんとも面白い。
たとえば、こんな感じである。

あえて名前は挙げませんが、ある球団には、選手やコーチ陣の登用にすべて口を挟むオーナーがいるようです。これではGMや統括本部が力を発揮しようにも、できないのではないでしょうか。

ある球団は、選手の登用やトレード、コーチ陣の任命すべてを一人の監督が行っていたようです。その監督は「勝つことが最大のファンサービスだ」と公言していたようですが、では、勝てないときはどうするのでしょうか。

このシステムには、ジャイアンツの監督と親戚関係にあるから、選手の評価を上げる/下げるといった項目はありません。

育成型チームになるというのは、無用なお金をかけないということです。<中略>
つまり、他球団の4番打者やエースをお金の力で引っ張ってきて、チームを強くするのではなく、あくまでもドラフトなどで獲得した選手を二軍で育てて一軍に供給するシステムで勝負していくということです。


まあ、最初のうちは「あえて名前は挙げません」といっていたのに、後半ではバッチリとチーム名が出ちゃっているのは、ご愛嬌でしょうか?
もっとも、そうはいっても日本シリーズではああいう結果に終わったという事実もあったりするわけですが。

社会科学を現実(?)に適用するということ ―『ゾンビ襲来』 ダニエル・ドレズナー著

ホラー映画をもっともっと見る習慣があったら、面白かったんだろうなあ、この本。

ゾンビ襲来: 国際政治理論で、その日に備える

ゾンビ襲来: 国際政治理論で、その日に備える

(↑上の画像や書名はamazonにリンクしています)

原題は「Theories of International Politics and Zombies」。
『国際政治およびゾンビの理論』といったところか。
邦題は、ややインパクト重視って感じで、もっと冷めたユーモアが感じられる落ち着いた題名のほうが、この本の本質にふさわしいのではないか、という気もする。

著者のダニエル・ドレズナーは、タフツ大学フレッチャー法律外交大学院(フレッチャースクール)の教授を務める著名な国際政治学者(らしい)。
アメリカの外交政策に強い影響力をもち、「ロックフェラーの陰謀」などを信じる人たちの間ではよく標的になる「外交問題評議会」のメンバーでもある。
一方で「ゾンビ研究学会」の諮問委員。

で、国際政治とゾンビにどのような関係があるというのか。
本書の問題意識意は次のようなものだ。

もし、死者が墓場から甦り、生者を貪り喰うようになるとしたら、さまざまな理論は、何が起こると予想するだろうか。また、その予想は、どの程度、妥当なものとなるだろうか(それとも、理論自体もゾンビ化してしまうのだろうか…。)
 まじめな読者は、このような疑問を単なる空想として一蹴するかもしれない。しかし、食屍鬼は、ポピュラー・カルチャーの中では、あまりにも当然のものである。映画、ポップス、ゲーム、書籍などの別を問わず、このジャンルは明らかに昇り調子にある。<中略>控えめに見積もっても、すべてのゾンビ映画のうちの3分の1以上が、過去10年の間に封切られている

そして、2001年秋の炭疽菌攻撃や、911のテロが、人々の関心をより強めているという見方もあるという。

にもかかわらず、社会科学者によるゾンビ研究に遅れをとっており、著者はそのことに危機感を持つ。

政策立案の観点からも、食屍鬼に関していっそうの研究がなされることは正当化される。近年において有力な意思決定者が示したように、発生確率のきわめて低い出来事であっても、それが実際に起こった際に予見される結果が深刻なものであるなら、大げさな政策的対応を誘発し得る。たとえば、先の副大統領、リチャード・チェイニーは、たとえ1%でもテロ攻撃の可能性があるなら、極端な手段の行使が正当化されると信じていた。

もし現実にゾンビの発生が起これば、テロに勝るとも劣らない、きわめて悲惨な結果が起こりうる。
人類に与える“実存的恐怖”の大きさは核テロをも上回るだろう。
であれば、ゾンビ襲来に対して社会科学がなにができるのか、真摯に考える必要がある! とまあ、そんなところが著者の主張である。

かくして、著者は「ゾンビとは何か」を定義し、ゾンビの起源や発生メカニズム、能力などについて考察したあと、国際政治の理論や思想が、ゾンビ発生にたいして、どのような理論や対応策を考えうるかを考察していく。

まず、定義について。

一国の安全保障という観点からレレヴァントな、ゾンビに関する想定は以下の3つである。
1.ゾンビは、人肉に対する欲望を抱く。彼らは、他のゾンビを食さない。
2.ゾンビは、脳を破壊しない限り、殺すことができない。
3.ゾンビに噛まれた人間は、ゾンビになること避けられない。
すべての現代的なゾンビに関するナラティブは、これらのルールに合致する。

(余談ながら、「レレヴァント」とか「ナラティヴ」って、学術書とかだと訳さないんですかね? 前者は「妥当な」、後者はまあ、平たく訳せば「語られ方」くらいですか・・・。)

なぜ死者がゾンビになるのかの起源については、多種多様で明確な「これ」というものはない。
しかも、ゾンビによる攻撃はこれまで存在したことがないため、予防策や先制攻撃をとることは事実上不可能に近い。
したがって、国際政治学や国際関係論では、これらを「独立変数」としてあつかい、「ゾンビが発生した場合にどのようなことが起こりえるか、そして、どのような対応をとるべきか」に議論を集中させることになる。

以下、著者は国際関係論における「レアルポリティーク(現実政治)の理論」や「リベラリズムの理論」あるいは「新保守主義ネオコン)の思想」などにのっとった時、ゾンビの発生によりどのような現象が起こり、国際政治に何が起こりえるかと予想できるかを考察していくのである。

たとえば、レアルポリティークの考え方では、国家は、それぞれ自国の利益をなによりも優先して行動すると考える。
だから、国際機関による協調や規制には懐疑的で、

彼らリアリストにとって、アンデッド(=ゾンビ 引用者注)は過去にも存在した伝染病や災害の繰り返しに過ぎない。<中略> 現代の研究によるなら、より大きな富を有し、より強大な社会の方が、相対的に弱く、貧しい国家よりも自然災害をうまく乗り切ることができる。リアリストは、ゾンビの感染拡大が、これらと異なった結果をもたらすと予想する理由はないと考える

そして、場合によってはゾンビに支配されるようになった国と、そうでない国との間で力の均衡や不干渉を旨とする同盟関係が構築されえることも予想されるという。

一方で、リベラリズムは、国際協調を重視する考え方であるが、リベラリストは、ゾンビと人類が協力がほぼ不可能であることを認めている。
そうである以上、ゾンビを、マネーロンダリングや食物媒介疾患のような、グローバル化における「負の公共財」とみなすことになる。
そこで、その拡散を防ぐために、国際機関が創設されることになるだろう。
たとえば、世界ゾンビ機構(WZO)のような。

さらに、リベラリズムは、国際政治におけるNGOの役割を重視するが、その中には、ゾンビの側に立って、ゾンビの権利擁護を目的とする団体の出現も予想される。

「ゾンビの平等」を主張するNGOは、現時点で少なくとも一つは存在している。それは「アンデッドの権利と平等に関する英国市民連(CURE)である。さらに強力なアクティビスト・グループ、たとえば、ゾンビ・ライツ・ウォッチ、国境なきゾンビ、ゾンビエイド、ゾンビの倫理的扱いを求める人々の会などは、世界ゾンビ基幹がゾンビの抹殺を達成するにあたって困難を生じさせることになるだろう

だが、これらのことが多少のコストとなっても、国際協力によってゾンビに対処すべきというのが、基本的なリベラリズムの立場といってよいだろう。

ネオコンの思想にのっとると、ゾンビに対してどのような対応をとるのが正しいのだろうか?

ネオコンは、ゾンビが世界政治の他のいかなるアクターと変わらないとするリアリストの主張を嘲笑い、また、グローバルガバナンスの諸制度によってゾンビに対処できるというリベラルの主張をも嘲笑う。人類による覇権の持続を確かなものにするために、この学派は代わりに攻撃的で軍事化された対応を推奨する。食肢鬼が向かってくるのを待っているよりも、ネオコンは、アンデッドに対して先制攻撃を仕掛ける政策オプションを推奨するのだ

・・・ほかにも、国際政治学における「構成主義的アプローチ」による立場による見方とか、国内政治や官僚制の影響、心理学的アプローチなど(いずれも国際政治理論の世界でもちいられるアプローチ)の立場からいろいろ書かれているけれど、それは割愛。(興味ある方は、本読んでください!)

これらのアプローチでゾンビ問題を分析した後、著者は最終章で、現代の国際関係論の欠点について述べる。

ほとんどの国際関係理論は国家中心主義的だが、国家間の紛争は、もはやそれ程重要な脅威ではない。<中略> テロリストもハッカーも、広大な領土は所有していないので、彼等に対する報復は困難となる。地震や噴火のような自然災害には、病原菌の媒介物や氷河の融解などのように、われわれが「主体」として観念するようなものは存在しない

そこで、新たな脅威に対応するためにより詳細な研究が必要になるのだが、とりあえずは、既存の理論が不完全ながらも有益な分析ツールを提供しており、「どのモデルを、いつ国際政治に適用するのかという事に関するる判断力は、科学というよりは、もはやアートの領域の問題なのだ」。

まあ、経営学なんかもそうだろうけれど、社会科学というのは、現実を説明する一つのツールにしか過ぎないし、理論や法則があったとしても、それは自然科学のような厳密なものではない。
それは便利なツールで、そのツールをどうつかうのかは、使い手の技能(アート)に依存するのだと、つまり、そういうことのようである。

・・・というわけで、この本、もちろん、ある種のジョークなのだが、国際政治学の理論と、その現実への適用(といっても、ゾンビの発生は現実ではないけれども)とはどういうことかの「実践」をやって見せている本です・・・という解説が正しいだろうか?

なお邦訳は本文149ページに対して、48ページにわたって「国際政治学」「ゾンビ学」双方の詳細に渡る訳者の解説が付され、登場する理論に関する基本書から、日本の国会において『ゾンビ』という言葉が使われた例の一覧、ゾンビに関する基本文献やサイトまで、著者に劣らず、訳者(法哲学と国際政治学を専攻する大学の先生)もマニアックなようである。

にしても、あれだね。
頭のいい人のジョークは、理解するまでにちと時間がかかる。
ふと、そんな感想を持ちました。

「すごい人たち」をうまく使う方法 ― 『戦略人事のビジョン』 八木洋介・金井壽宏著

ゼネラル・エレクトリック(GE)というのは、考えてみると、凄い会社名だ。
日本語に訳せば「総合電機」だろうか?
大分印象が違いますね。

消費財としての商品がないということもあってか、GEというブランド名は日本ではいまひとつなところもあり、日本で保険会社をはじめるにあたっては、わざわざ創業者の「エジソン」の名前を冠したくらいのGEなわけだが、もちろん世界的に見れば超スーパー企業である。
世界で最も成功しているコングロマリット(複合企業)といってよいのかもしれない。

そんなGEが、どんな「人事」をやっているのかお話しますよ、というのが本書のテーマである。

戦略人事のビジョン 制度で縛るな、ストーリーを語れ (光文社新書)

戦略人事のビジョン 制度で縛るな、ストーリーを語れ (光文社新書)

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著者の八木洋介氏は、今はなき日本鋼管(NKK、現JFEスチール)に19年間勤務し、その後GE関連企業で人事部門に転職、現在は住生活(LIXIL)グループのグループ執行役副社長。
で、八木氏が語るストーリーについて、キャリアやモチベーション、リーダーシップなどの研究で有名な金井壽宏センセが各章ごとにコメントをつける、というのが基本的な構成である。

基本的には、NKK時代の人事のあり方を「古い日本企業の人事部門のあり方」、GEの人事を「これからあるべき人事の姿」として語る、というのが、この本の基本的な枠組みといって間違いあるまい。

冒頭、八木氏はこんな風に語る。

以前、私が勤めていた会社には、「人事マフィア」という言葉がありました。<中略>
社内には「泣く子と人事には逆らうな」と眉をひそめて言う人たちもいました。<中略>
一般的に言って、企業の人事部門はオープンではありません。社員の情報が集約されている組織なので、それは仕方がないことでもあるのですが、過度に閉じられた組織は、何かおかしなことをやっているのではないかという疑いを外部からもたれます。そのうえ、相当な力をもっているらしいという風説が立つと、なんだか本当に恐ろしい集団のように見えてきます。「人事マフィア神話」はこうして一人歩きし始めます。
 しかし、結論を先に言ってしまえば、人事部門がオープンではないのは、社員情報をたくさん握っているからでも、何かをたくらんでいるかららでもありません。一言で言えば、人事政策に戦略性が欠けているからなのです。

で、戦略性が欠けているというのは、つまり、社員の考課や人事異動が、たとえば「年功序列」にしたがってモノを動かすごとくになっていて、「なぜ」「どのように」「なんのために」という戦略的ロジックが欠けているということ、らしい。
どうやら、かつてのNKKの人事は、そうだったらしいですよ(笑)。

で、そうした人事を打破するための基本的な考え方として、八木氏は「戦略性のマネジメント」という言葉を上げる。
それは、

「現在」を見て、勝つための戦略を立て、それを企業内の各部署に一貫性をもって反映させるマネジメントです。<中略>そのような企業では、人事部門は、前例や制度やマニュアルに固執することなく、見識を持って変革をリードする役割を果たします。

そういうマネジメントの「対義語」としてあげられるのが「継続性のマネジメント」。
これは、「過去」をみて、連続性を重視する。まあ、言ってしまえば「前例踏襲」を重んじて現状の変化に対応できないといったところですかね?

さて、それでは「戦略性のマネジメント」を実行するGEの秘密はどこにあるのか?

戦略性といっても、人事だけでそれを持つことはできないわけで、まずGEとして、何を目指すのかがはっきりしていなくてはならない。
その意味で、GEの掲げる目標は明確で、八木氏によればそれは「勝ちの定義がしっかりしている」ということだそうな。
具体的には

毎年、売り上げを八%伸ばし、前年比二桁増の純利益と、投資利益二〇%を確保するというゴールがはっきりと設定してあります。

・・・これは、なかなかに厳しいですよね。
実際、GEは人の入れ替わりの激しい企業のようですが・・・

それともう一つは、GEが「本音を封印」する「建前の会社」であるということ。
これは、本音ベースではいろいろ意見はあろうが、会社として「みんなでこうしましょう」と決めた「建前」は、きちんと守りましょうよ、と、そういうことである。
もちろん、これは、その「建前」をつくるまえにきちんと議論することが前提であろうが、決まったらもう、ぐだぐだいわずに、それにしたがって進みましょうと。

で、そんなGFでの評価はどのように行われるのか?
その基本はきわめてシンプルだ。
縦軸に「パフォーマンス」、横軸に「バリュー」、をおいて9分割したマトリックスをつくり、「パフォーマンス」と「バリュー」ともに優れている人を「Role model」、以下「Excellent」、「Storong Contributor」「Development Needed」「Unsatisfactoly」といった形に評価していくのだという。
CEOは経営陣を、以下、それぞれ部下を常にこういう枠組みで見ていくということですね。
(って、これ、文章で書いたところでうまく伝わるのだろうか。図を描こうと思ったけれど、今日は時間がないので割愛。いずれ気が向いたら入れる・・・かもしれませんが)

この評価方法、細かい「数値」や「公式」による定量化はされていない。
だから、部門や職務に応じて、実際にどのように適用していくかは、常に現場のマネージャーと人事部との間で議論されており、そこをサポートするのが人事の大切なお仕事でもあるらしい。

で、結局、評価者の主観がだいぶ入るわけだが、そこは、「人が人を使う以上、主観を排除することは不可能である」という割り切りと、評価を適切に下してパフォーマンスをあげることこそ、評価者(リーダー)の役割なんだから、そこはちゃんとやりましょうね、人事部も協力しますから・・・と徹底させることで乗り切っているようである。

そのほかにも、GEではリーダーは15年から20年程度努めるべきと考えられており、そのためには45歳くらいでトップにならないといけないので、リーダーの育成には特別に気を使っている、という話とか、

35歳転職限界説、というのは、日本企業がこれまで35歳程度で昇進のふるいをかける人事制度を主流としてきたので、35歳でうまく出世コースにのった人は転職しないし、そこでコースに乗らなかった人が転職市場に出て行ってもなかなか評価されないところから生まれた現象ではないか、という著者の仮説とか、
いろいろトピックはありましたが、それはとりあえず割愛。

で、GEの戦略人事だが、前提として、GEがものすごく「ハード」で、飽くなき成長を追及する会社であり、その中でこそ生かせる仕組みだよなあ・・・というのが、このブログの中の人の感想ではある。

実際、働きすぎてつぶれる人がいたりして、「休むときは休め」「働いてばかりいるとアホになる」と呼びかけるのも人事のお仕事だったりするようで、つまりGEの人事制度というのは、そういう人たちが集まる職場で、戦略的に人を使う仕組み、ということですね。

んなもん、なかなか凡百の企業ですぐに取り入れられるってもんでもないような・・・という感想をもつのは、このブログの中の人は「休むときは休め」なんていわれる前に休んでいる「なまけもの」だからかもしれませんが。

もう一点、ちょっと別の視点からの感想を。
実はこの本、どうやらあとがきに「私の語りをうまく引き出してくれた」編集者や、「巧みな構成で本書のストーリーを紡ぎ出してくれた」方への謝辞が連ねていることから察するに、最近のビジネス書にありがちな「著者の語りを口述筆記して再構成する」という作り方をしたらしい。

で、そういう本って往々にして、構成のツメが甘かったり、個々の文章は読みやすいけど全体として振り返ってみたときに「はて、結局どこがポイントだったのか」が、不明確なときがある。
正直、この本にも、そういう風味を感じました。

ただ、現場でバリバリ働いておられる方に本を書いていただくには、そういう手法しかないのもまた事実なので、こういう本があってこそ「机上の空論」ではない「体験談」が読めるってのもあるわけで、その辺、なんとも難しい問題ではあるよな、と感じるのでありました。

語ること、語れないこと、分かること、分からないこと ― 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 野矢茂樹 著

内容の理解がおぼつかない本について、ここに書くというのは禁じ手というか無謀な話なのだけれど、でも、やってしまう。
そんな気にさせられた本だったわけですよ、はい。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)

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ウィトゲンシュタインという人のことは良く知らないという人でも、「語りえないものについては、沈黙しなければならない」という言い回しをどこかで聞いたことがある人は多いかもしれない。
ま、どっちも知らなかったとしても、それはそれで何も問題はないが。

まあとにかく、なんとも「カッコいい」言い回しなので、このブログの中の人も恥ずかしながら、真面目な場面で「好きな言葉」をあげてください、といわれたようなときは、このフレーズをあげている。
(ちなみに、あまり堅苦しいことを言わないほうが良いときは「果報は寝て待て」「棚からボタ餅」あたりをあげることが多い。これはこれで、けっこう本心)。

このフレーズは、ウィトゲンシュタインの著書『論理哲学論考』(以下『論考』)の、テーマでもあり、結論なのである。

『論考』という本は、はなはだ風変わりな本で、本文の冒頭を引用するとこんな感じ。

1 世界は成立していることがらの総体である。
1・1 世界は事実の総体であり、物の総体ではない。
1・11 世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。
1・12 なぜなら事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないのかも規定するからである。
野矢茂樹訳の岩波文庫版。原本では数字は漢数字表記)

…とまあ、こんな調子で、世界を写すものとしての言語や論理の姿を探求することによって、我々の論理、考えうること、語りうることの限界を見極めようという試みだ。
まあ、フツーの人がフツーに取り組んでなんとかなるシロモノではない。

例のフレーズは、都合2箇所でてくる。
まず序文。

本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のように要約されよう。およそ語られうることは、明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。

そして、末尾である。

6・54 私を理解する人は、私の命題を通り抜け ―― その上にたち ―― それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子を上りきった者は梯子を投げ捨てねばならない。)
私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。
7  語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

なんだかよく分らないけれど、なんかカッコよくないですか? 
いや、別段カッコいいと思わない人がいてもそれはそれでよいし、そういう人にとっては、今回取り上げた本は「必要のない」ものでしかないのだが。

著者の野矢先生は、冒頭で快調に言い放つ。

『『論理哲学論考』を読む』という本を読んでも、『論理哲学論考』を読んだことにはならない。当然のことである。他方「『論理哲学論考』を読む」などというゼミに出たりすると、それは『論理哲学論考』という本を読むのである。<中略>
本書を読むことは、『論理哲学論考』を読むという体験でもあろう。つまり、私が開講する「『論理哲学論考』を読む」というゼミに参加するような体験を本書で味わっていただきたい。

まったくの一般論であるが、哲学の解説書というのは読まないほうがよい。<中略>「はやわかりナントカ」という本となると、哲学を殺しにかかっているとしか思えない。と、言い放っておきながら何なのだが、では本書はどうかというと、『論理哲学論考』を理解したいと思うならば、この本を読むのが現時点で最短であるといいたい。

で? それは最短の道でしたか、というと、まあたぶん、そうなのだろうという感触はもったのだが、それでもまあ、かなり遠い道ではありました。

ごくごく簡単にいえば、ウィトゲンシュタインがやりたかったことは、こういうことらしい。

人間の思考の限界はどこにあるのか?

それを見極めるためには、「思考の外側」にあるものが何なのかを見極めなければいけない。
どこが限界か見極めるためには、限界のこちらがわと向こう側を見極めなければいけないのだから。

ところが、「思考の外側」にあるものは、「思考」することができない。
当たり前といえば、当たり前である。
外側にあるんだから。

そこで、ウィトゲンシュタインは、「思考されたものの表現に対して」限界を引く。
つまり、人間が世界を写し取る道具としての「言語」と、それを組みあげるものとしての「論理」によって表現できることの限界を見極めようというわけだ。
思考そのものの限界の向こう側を直接思考することはできない。
そこで、、思考の道具であり、思考を表すものである言語と論理の限界を見極めていくと、そこで「語りえないもの」、つまり人間の思考の限界の向こう側にあるものが分ってくるでしょ・・・とまあ、そんなようなことだ。
たぶん。

結論めいたことをいえば、たとえば「論理」や「倫理」は「示されうるものでは合っても語りうるものではない」というところに話は行き着くのだが、そこまでの議論は・・・はい、そうですね、興味がある方は本書をお読みくださいということで(笑)

ウィトゲンシュタインはこの本で「本書に著された思想が真理であることは犯しがたく決定的であると思われる。それゆえ私は、問題はその本質において最終的に解決されたと考えている」と言い放ち、しばらく小学校の教師に転職したのだという。
いずれ、自らの思想の間違いに気づき、そこから「後期」とよばれる思想の展開に入るのだが。


・・・と、ここで紹介を終えてしまってもなんなので、著者の語り口がどんなものなのか、という気分を、以下で味わっていただくことにする。

たとえば、引用した「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」とはどういうことか。
著者はこんな感じに語る。

これはまさしく、現実から可能性へとむかう一歩に他ならないのだが、そのことを見て取るのはそれほど簡単ではない。少し準備運動をしてみよう。
 なんとなく眺め渡してみるならば、確かに世界はものたちにあふれている。机、コップ、時計、部屋の外に出ればポスト<中略>、これらのものたちの総体が、つまり世界ではないのか。
 そうではない。
なぜか。さしあたり極めて、簡単な理由がある。ここには、たとえば「赤い」がない。「寝ている」もない。しかし、あのポストは赤く、この猫は腹を出して寝ている。それが世界のあり方である。
 では物だけ、ではなく、「赤い」とか「寝ている」のような性質も集めてこよう。<中略>
いや、性質だけではまだ物足りない。もう一押ししよう。たとえば、机の上にコップがある。このとき、「…の上に…がある」というのは二つのものの関係である。

こうして、ものや性質や関係が複合して始めて構成されるのが「世界」である。
そして、私たちは、まず「世界」を把握し、それを「性質」やら「関係」やら「個体」といった対象に解体し、それを論理にしたがって再構成することで、「可能性」を手に入れるわけだ。

「もし、あれが、こういう性質ではなくて、ああいう性質だったら」とか、「こういう関係ではなく、ああいう関係だったら」と組み替えることが、「可能性」である。
で、実際の対象が持つ複雑な関係を直接変えることはできないから、言語という道具によって、思考の中で組み替えてみるのであって、そうやって作られた箱庭のようなものが「像」である・・・といった話が続くわけです。

像を作ることができなければ、現物を動かすしかないが、現実の世界でそんなことは不可能だから、そうなると

一切可能性の領域は開けてないことになるだろう。たとえばミミズはそうである。ミミズはただ現実のみに行き、現実の代わりとなる箱庭を作るようなことはしない。それゆえ、ただ現実の状況に反応して現実の行動を起こすだけでしかない。つまりミミズには可能性はない。猫などでも、少なくとも我が家の猫なんかはそうなのではないかと私は常々疑っている。しかし、私は違う。威張るようなことではないが。

以下、そうした「像」を作る要素たる「名」がどんな性質を持っているのかとか、まあ、そんな方向でウィトゲンシュタインが語りたかったことを語っていくわけです。

ま、冒頭の引用した『論考』そのものの、無味乾燥な命題の羅列(命題という言葉も、『論考』の用法に従えば厳密な意味があるが、ここではそんなのは無視!)よりは、なんか分かる・・ような気がする。
錯覚かもしれないが。

・・・とまあ、いろいろ語ってみたものの、この本はまだ、このブログの中の人について「語りえないもの」であったようである。それは「思考一般」の限界ではなくて、語り手の「思考力の限界」を示しているわけですが。

なお、著者の野矢氏は本書において、ウィトゲンシュタインについて精密に読解しつつ、その思想を乗り越えようとして取り組んでおり、その格闘の過程が垣間見えるのも、この本の魅力ではある。
そうした思いをこめた、本書の末尾の一説を、最後に引用しておくことにします。

語りきれぬものは、語り続けなければならない。

明るい未来か? 大変な世の中か? ― 『ワーク・シフト』リンダ・グラットン著

何の自慢にもならない話なのだが、このブログの中の人は、複数回の転職を繰り返している。
これは、なんだかんだいって終身雇用が「普通」ないしは「理想」と考えられがちな今の日本の社会にあっては珍しいことのようで、ごくまれに、なんだか「凄いこと」のようにとられてしまうこともあったりする。

たしかに、それが、なにか果敢にステップ・アップしていったり、引き抜かれたりというような話であれば「凄い」のかもしれない。
が、しかし、そんなカッコいい話ではなくて、たとえば、勤務先がリーマン・ショックのあおりを受けて以降低迷が続き、結果としてやむを得ず・・・とか、そんな話だったりするわけだから、いや、本当に、なんの自慢にもならない話ではある。(って、しつこく繰り返すこともないのだが)。

いや、むしろ、あれですよ。今は安定しているあなたの会社だって、もしかすると・・・なんて意地悪い視線を持ってみたりもするわけだが、実際、この「失われた20年」くらい、やれリストラだ人員整理だと、終身雇用を脅かすニュースは繰り返されているわけで、不安に思っている人も多いことだろう。

そして、いろんな意味での「働くこと」への不安は、なにも日本に限った話ではなくて、世界的にも関心の高い話題らしい。

で、これからの「働き方」はどうなるのか、一つの方向性を示してあげましょう、というのが、今回の本のテーマである。

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

(↑上の画像や書名はamazonにリンクしています)

著者はロンドン・ビジネススクールで教鞭をとる女性経営学者。フィナンシャルタイムズで「仕事の未来を予測する識者トップ200人」に選らばれた、のだそうだ。

冒頭の一節にこの本のテーマや問題意識は凝縮されている。

過去20年間の働き方や生き方の常識が多くの面で崩れようとしている。朝九時から夕方五時まで勤務し、月曜から金曜まで働いて週末に休み、学校を卒業してから引退するまで勤務し、月曜から金曜まで働いて週末に休み、いつも同じ顔ぶれの同僚と一緒に仕事をする ―― そんな日々が終わりを告げ、得体の知れない未来が訪れようとしている。
 その得体の知れない未来について、私は知る必要があった。それは、私に、問いを投げかけた人たちにも、そして、この本を読んでいるあなたにも必要なことだ。

そして、2025年、私たちの働き方はどうなっているのか? という予測と、その変化にうまく対応するための処方箋を示しましょう、というわけだ。

以下、本文では、まず、
第1部で働き方の未来に影響を与える5つの要因(テクノロジーの進化、グローバル化の進展、人口構成の変化と長寿化、社会の変化、エネルギー・環境問題の進化)について、分析し、

第2部で、これらの変化がマイナスに作用した場合の「暗い現実」、第3部でこれらの変化をうまく利用し、対応した場合の「明るい日々」と、それぞれの仮想ストーリを示し、

第4部で「明るい日々」を迎えるために働き方をシフトする方法について述べましょう・・・とまあ、全体の構成はこんな感じ。

400ページちかい厚さの本だが、きわめて具体的な記述やストーリーを織り交ぜているので、厚さほどには読むのに時間はかからなかった。けっして内容が薄いというわけではないのだが。

最初に取り上げられる5つの要因は、総計32の要素に細分化されているのが、それはたとえばこんな感じだ。
要因1 テクノロジーの進化
テクノロジーが飛躍的に発展する・世界の50億人がインターネットで結ばれる・「ソーシャルな」参加が活発になる・バーチャル空間で働き「アバター」を利用することが当たり前になる・・・。

最後のアバターは、たとえば世界に散らばっている同僚たちが、サイバー空間で、アバターで会議をする・・・みたいなイメージと思ってもらえばいいだろうか?
果たして、本当にそうなるのか? と思う一方、この15〜20年くらいのテクノロジーの進化(デジカメ、ネット、携帯端末、クラウドSNS等々)に、さらに加速度がつくだろうことを思えば、あながち「夢物語」ではない、という気はする。

まあ、ほかにも、新興国の台頭とか、年齢構成の変化や、寿命が長くなることによって、生産的な活動に携わる年数が飛躍的に延びるとか、エネルギーの枯渇とか、まあ、ここの問題はそれぞれに語られていることだが、「働き方に影響を与える要因」という切り口で整理し一覧で見せられると、また新たな発見がある、ような気がしてくる。

そうした要因が「暗く」作用するとどうなるのか?

たとえば時差のある世界中から、情報が集まり、それを次々とさばいていかなければならないために、24時間、細切れの時間を働かなければいけなくなったり、(これは、メールのお陰で忙しくなったり、ネットの発達で移動中や休みの日も仕事ができるようになってしまったりしている、現代の延長線上の現象だ)
あるいは、家族関係が多様化したり、世界中に家族がちらばってしまうために、孤独にさいなまれたり、
あるいは、グローバル化に取り残された貧困層があちらこちらに出現したり、ということになる。

これは、日本で言われている「格差社会」の話とも通じる論点なのだろうが、グローバル化は、これまでのような「豊かな国・地域」と「貧しい国・地域」という垣根を壊していく働きをする。

現在、経済発展から取り残されている貧困層は、サハラ砂漠以南のアフリカなど一部の地域に集中しているが、グローバル化が進み、世界がますます一体化すれば、先進国も含めて世界中のあらゆる地域に貧困層が出現する。

未来の暗い側面の一つは、貧しい国だけでなく、先進国でも経済的繁栄から締め出される人が珍しくなくなることだ。<中略>
とりわけ優秀な人材は次第に出身国を飛び出し、自分と同じような考え方と専門技能・能力の持ち主が集まっていて、豊かな生活を期待できそうな土地に移り住むようになる。その反面、収益性の高い産業が育つ余地がほとんどない地域も出現する。

本書の趣旨からはちょっと離れるのだけれど、日本という国にひきつけて考えると、そこはこれまで「そこに住んでいること・そこの国民であること」で、ある程度の豊かさが享受できる国だったのだが、まあ、それが、いやおうなく崩れていくということだろう。

もちろん、暗い話だけではなくて、ネットのつながりを生かして、世界中の人と協力して社会問題に取りくんだり、小さな企業でも新しいビジネスに取り組んだり、今までにない価値観を模索する道もある、というわけだが、では、そういう明るい道を進むためにはどうしたらよいのか?

それがつまり、著者の言うところの「働き方のシフト」なわけだが、それは、以下の3つ、だそうな。
無理を承知で簡単にまとめると、こんな感じだろうか。


1 ゼネラリストから「連続スペシャリスト」へ。
たとえば、かつて大企業で出世するためには、その会社のことを広く浅くこなせる「ゼネラリスト」になる必要があったわけだが、そんなものは今後は求められなくて、なにか核となる技能があって、それをさらに、そのときの状況や自分の関心にあわせて、移行・脱皮させていく、ということ。

2 孤独な競争から「協力して起こすイノベーション」へ。
いろいろなレベルで協力したり、協同したり、あるいは心の安定を得るための人的ネットワークをそれぞれに持ちなさい、ということ。

本書では、以下の3つを作ることを推奨している。

「ポッセ」=少人数のグループで声をかければ力になる集まり。専門技能や知識がある程度重なり合っている必要がある。なんか、仕事で困ったときに電話かけるといつでもアイデアくれたり相談にのってくれたりする人、というイメージ。

「ビッグ・アイデアクラウド」=いろいろなアイデアやヒントをくれるような、比較的大きなゆるい集団。自分とは違う分野や考え方の人たちがたくさんいたほうがいい。

「自己再生のコミュニティ」=仕事のため、ではなく、一緒に食事をしたり、冗談を言って笑いあったり、(あまり好きな言葉ではないが)癒しのためのリアルな人間関係。


3 大量消費から「情熱を傾けられる経験」へ

すべての時間とエネルギーを仕事に吸い取られる人生ではなく、もっとやりがいを味わえて、バランスのとれて働き方に転換すること。

・・・とまあ、結構駆け足でここまでまとめてみたが、どうだろうか?
このブログの中の人の感想としては、「まあ、おっしゃることは分るけど・・・」という感じだろうか?

まず、最初のほうにでてくる、さまざまな「要因」については、まあそうだろうな、という気がする。
「予測」となると、もちろん正確には無理だろうが、一つの方向性として「まあ、そんな風になるだろうな」と思えるだけの説得力はある。、
そして、「暗い未来」を生きざるを得ない人も出てくるだろうし、「明るい未来」を生きる可能性を手にすることもできるだろう。

で、「明るい未来を得る」ための方法論。これは、「そりゃ、それができりゃいいだろうけど、これがなかなか・・・」というのが率直なところではないだろうか?
明るい未来、というより、やれやれ、大変な世の中がくるぞおい、と思う人のほうが多いんじゃないかと思う。

「ゼネラリストから『連続スペシャリスト』へ」と語る章で、専門技能のなかでも2025年に向けて有望なもの、というのが上げられているのだが、これが「1.生命科学・健康関連、2.再生エネルギー関連、3.創造性・イノベーション関連、4.コーチング・ケア関連」とまあ、具体的な説明は省略するけれど、どれもそれなりにハードルが高い。

実は、この本をテーマにして読書会に参加したのだが、そのなかで、「もう自分間に合わないので、子供には、子供にはこの本を手引きにして・・・」というような意味のことをおっしゃった方がいた。
まあ、そういうことかもしれないですね。

ところで、ちょっと余談になるかもしれないが、人口構成や社会のあり方、先進国と途上国の関係などが変わることによって、働き方が変わる・・・というのは、晩年のドラッカーが『明日を支配するもの』『ネクスト・ソサエティー』あたりで語っていたことと記憶する。(今手元に本がないので、うろ覚えだが)

もちろん、ネットの未来とかSNSとかそんな話まではしていなかったが、寿命が延びる一方で先進国で少子高齢化が始まり、年金も今のままでうまくいかなくなってかなり高齢まで働かなきゃいけなくなり、一つの会社に定年まで勤めるだけでなくて、多様な働き方が云々、ということを90年代には語っていたはず。
やっぱ、はんぱねえな、ドラッカー・・・って、別にそれが今日の結論ではないのだが。

「政治的に正しい」ことをいっても解決策にはならないということ − 『私家版・ユダヤ文化論』内田樹 著

この週末に、今回取り上げる本の著者、内田樹氏の講演会を聞く機会を得た。
主な内容は、メディア論だったのだが、その最後、あらかじめ聴講者から集められた質問に内田氏が答えるところで、ちょっと面白い質問があった。
曰く、「内田さんの本は、どうしていつも前書きが『言い訳』から入るのですか?」

このブログの中の人は、ことさら熱心な氏の著作の読者というわけでもないのだけれど、確かにそうかもしれない、と思う。
氏はいささか不意を突かれたように苦笑して「ああ、鋭いなあ、これは初めて言われたけど、確かにそうですねえ」といった意の事をおっしゃっていたけれど。

で、今回の本はこれである。

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

(↑上の画像や書名はamazonにリンクしています)

この本の前書きに書かれた“言い訳”は、次のようなものだ。

これは私個人の知的関心に限定して書かれたユダヤ人論である。ユダヤについて中立的で正確な知識を得たいという人のために書かれたものではない。そのような書物を望まれる方は、この本はそのまま書棚に戻されて、より一般的な他の入門書を取られたほうが良いと思う。
 私が本書で論じたのは、「なぜユダヤ人は迫害されるのか」という問題である。

なるほど。

そもそも、日本人でユダヤについて「中立的で正確な知識」を持っている人というのは、どれくらいいるのだろう? 市井に暮らす日本人にとっては「ユダヤ人って何?」なんてことは、まったくもって分っちゃいない方が通常だ。
それでも、ユダヤ人という人たちが長い歴史の中で迫害されつづけていたらしいことは、知識として知っている。それは、「教えられるべきこと」とされているから。

そして、一部の人たちは、国際政治や経済・金融などの世界でおこる「困ったこと」の大半が「ユダヤ金融資本」とやらの陰謀によるものだと、かたくなに信じていたりする。

一部、と書いたけれど、それは「そういう言論を信じてはいけない」ということが、一般的には「政治的に正しいこと」とされているから、表立ってはそういう考えは表明しないけれど、心の奥底では、なんとなくそう思っているという人たちは、結構な数に上るのではないかと、個人的には感じているが。

「ユダヤ人迫害には根拠がない」(だから、ユダヤ人を迫害してはいけない)というのが「政治的に正しい言説」ではあるけれども、現実には「ユダヤ人迫害にはそれなりの理由がある」と考えて、あまりにも愚鈍で邪悪な蛮行が行われてきたという歴史は、厳として存在する。

そこで、著者はどうするか。

私には問題の次数を一つ繰り上げることしか思いつかない。今の場合、「問題の次数を一つ繰り上げる」というのは、「ユダヤ人迫害には理由がある」と思っている人間がいることは何らかの理由がある。その理由は何か、というふうに問いを書き換えることである。
この問いは、「人間が底知れず愚鈍で邪悪になることがある」のはどういう場合か、という問いに書き換えることができる。

かくして、著者の「私見」が開陳されていくことになるのだが、たとえ「中立でも公正でもない」としても、「第一章 ユダヤ人とは誰のことか」「第二章 日本人とユダヤ人」「第三章 反ユダヤ主義の生理と病理」までは、基本的な知識の乏しい我々日本人が「ユダヤ人問題」の枠組みを理解し整理するための手がかりとして、非常に分りやすくまとまっていると思う。

「日本人」といったとき、国籍も文化的伝統も言語も、「国民国家」のもとに統一された集団を思い浮かべてしまいがちな私たちにとって、「国民国家の国民が共同体に統合されている集団」ではない社会集団を「○○人」という形で想像することは難しい。
著者の言によれば、ユダヤ人を理解するためには、日本人の多くが持つ、この「固有の民族詩的奇習」から自由になる必要があるのだ。

簡単に言ってしまえば、ユダヤ人とは、人々が「ユダヤ人だ」と思っている人々のことである。そして「ユダヤ人」という記号を手に入れることで、初めてヨーロッパ社会が認識出来るようなものがある・・・というのが氏の議論の前提となっている。

・・・どうしましょうか? このペースでいったら、今回のエントリ、凄い長さになりますね。。。

第二章の日本人とユダヤ人、というのは、「日ユ同祖論」と呼ばれる、明治以降、日本に生まれた「ユダヤ人と日本人は同じ祖先をもっているのだ」とする説をめぐっての議論が展開する。
それは、当時すでに世界に流布されていた、「ユダヤ人は世界を征服しようとしている」という言説と、日本は特別な使命を帯びた神国である、という思想が奇妙な形で結合した「物語」なのだ(というのが著者の解釈)なのだけれど、説明しだすと長いので割愛。
興味ある人は読んでみてください。

第三章は、近代の反ユダヤ主義の成立をめぐって、フランス革命期に生まれた反ユダヤ主義を主な題材にしているのだが、ここで登場するのが、ドリュモンという人の書いた、『ユダヤ的フランス』という、当時のフランスの大ベストセラーである。

これ、ごくごく簡単に要約すると、つまり「フランス革命がおこってフランスが混乱し、本来の美しい伝統あるフランスが壊れていってしまっているのは、ユダヤ人のせいである」という保守派からなされた(妄想的)陰謀論、といった趣の本。

ドリュモンが恐れ、嫌悪していたのは、ユダヤ人ではなく、近代化=都市化の趨勢そのものであった。しかし、「時間の流れ」というようなものを敵に想定して戦うことは誰にも出来ない。敵は可視的・具体的な人間でなければならない。「誰知らぬものなき非行」の実行者であり、「そこからの解放が一般的自己解放と思われるよう」な邪悪な人々でなければならない。フランス革命以降の社会の変化から受益している人間でなければならない。

そして、こうした言説は、善意で無私無欲で頭脳明晰な人間の心にこそ、入り込んでしまうこともある。
それが、国家や社会の行く末を、真剣に考えた結果だったりすることもあるのだ。

では、そのような“愚行”をこの世からなくすことが出来るのかといえば、本書の終章はこんなタイトルになる。
「終わらない反ユダヤ主義」。
そう、終わらない(と、著者は考えている)のである。

フロイトの「引き受け手のいない殺意」理論や、著者が師とあがめる思想家、レヴィナスの、「人間は不正をなしたがゆえに有責であるのではない。人間は不正を先にすでに不正について有責なのである」といった思想を引きながら、「反ユダヤ主義」が生まれるメカニズムを解剖していく本章の議論を、簡潔にまとめることは、手に余る大きな問題なので、これまた「本書に当たってください」と逃げておく。
(ついでに言えば、フロイト精神分析って、「もう古いよね」「間違ってたよね」という議論がいっぱいあることも、今は措いておく)

感想めいたことを記しておけば、このテーマにおいて、「終わらない」という言葉は、重い。
それはつまり、反ユダヤ主義を生みだすものが、人間から邪悪さや愚かさがなくならないというのと同じ意味において、「終わらない」ということなのか。

社会や人間の進歩を安易に信じるわけではないけれど、私たちの社会は、「ユダヤ人を迫害されるには理由がある」という言説が「政治的に正しくないと断罪される」という程度には変化してきている。

それは「終わらせる」ための努力を続けてきた一つの「成果」ではあるのだけれど、しかし、そのような努力とはまた別の次元で「終わらない」構造が、人間の本性に根ざす形で存在するのではないか。

そう考えると、ちょっと暗澹とした気持ちにはなるのだけれど、しかし「終わらない」ことは、それはそれとして、個別具体的な場面で、思考し苦闘していくことというのは出来るわけで、むしろ僕等の日常というのも、ほとんどつまりそういうことなのではないか、とも思ったりするわけです。

ところで、先にも引用した

「時間の流れ」というようなものを敵に想定して戦うことは誰にも出来ない。敵は可視的・具体的な人間でなければならない。「誰知らぬものなき非行」の実行者であり、「そこからの解放が一般的自己解放と思われるよう」な邪悪な人々でなければならない

とまあ、こういうタイプの言論。
私たちの社会においても、とくにインターネットの一部界隈で、「対ユダヤ」とは別に、最近数多く跋扈しているような気がする。
その辺の問題との関係性についても、ちょっと思いが及んだのだけれど、これまた、あまりにも手に余る問題なので、「そういうことが思い浮かびましたよ」ということだけ記しておくことにする。

・・・にしてもアレですね。書き手の頭の中で、なんの「ケリ」もついていないことが明々白々な文章ですね、今日は。
まあ、たまにはこういうことを考えてみるのも、頭のストレッチとしては悪くない。ストレッチを読まされる人には、恐縮なのだけれど。