尊敬に値する総理大臣がいた時代が、この国にもあったらしい ― 『危機の宰相』 沢木耕太郎 著

危機の宰相 (文春文庫)

危機の宰相 (文春文庫)

「佐藤、池田総理、嘘だけ言うとさ」という(一部で)有名なフレーズがある。

これだけ見ると、何のことだか分からないという人もおられると思うが、これを平仮名にしてみると、凄さが伝わりやすいかもしれない。


「さとう、いけだそうり、うそだけいうとさ」
まだ分かりにくいか。


このフレーズ、是非、平仮名を右から左に読んでいただきたい。
そう、右から読んでも左から読んでも同じ、回文、なのである。

この回文、往年の名コピーライター・土屋耕一氏の作だそうだが、なにが秀逸といって、佐藤、池田という歴代の実在の総理大臣の名前を織り込んだのみならず、池田総理という人が自民党のテレビCMに出たときのキャッチコピー、「私は嘘は申しません」を見事に皮肉っていることである。

ちなみに、この「嘘は申しません」というコピーは、「貧乏人は麦を食え」をはじめ、率直であるがゆえに失言の多い池田勇人の言動を逆手に取ったものでもあったそうだが。

池田総理が自民党のCMに出たときのコピーというのはもう一つあって、それは、「経済のことは、池田にお任せください」というものだったそうだ。

いや、なかなか今、こんなことを言い切れる政治家はいないだろうな。
当時は、「所得倍増」という夢のような政策を掲げ、そして、それを実現できる政治家がいた、ということである。

果たして、それはどんな時代なのか。そして、その政治家とは、どんな人なのか。

その問いに答えるのが、今回のお題である、この本である。 (ここまでのマクラが長すぎたかな)

『危機の宰相』  沢木耕太郎 著 文春文庫

池田勇人。総理大臣としての在任期間は1960年7月〜1964年11月。

日本の戦後史を調べると、池田総理の任期初めにあたる1960年というのは、そりゃもう大転換期にあたる。
日米安保条約改定、というやつだ。

その中身はよくは分からなくても、この日米安保改定をめぐって、なんだか国会をデモ隊が取り囲んで、死者も出るような「戦後最大の市民運動」が起こった、ということは、一応知っている人も多いだろうと思う。

詳細を説明しだすと長くなるので省略するけれど、この安保改定を果敢に推し進めた総理大臣が、日米開戦時の商工大臣にして戦犯容疑者でもあった岸信介であった、ということも要因の一つにあって、「二度と戦争を起こすな→安保ハンタイ」という世論が異様なまでに盛り上がったのである。

もっとも、反対運動に参加している人のほとんどは「安保条約」がどういう内容のもので、「安保改定」が何をどう改定するのが目的で、安保条約があるとなぜ日本が戦争に巻き込まれるのか、といったことが、よく分かってなんかいなかった、らしいけれど。

岸信介はデモ隊を振り払うために、防衛庁長官赤城宗徳(ご記憶かどうか、「ばんそうこう」騒動で話題を振りまいて大臣をやめた、某政治家の祖父である)を呼びつけ、自衛隊の出動を要請する。

だが、赤城は「同じ日本人同士を闘わせ、血を流させるわけにはいかない」と、首相の要請を拒否する。

結局、安保条約の改定は、デモ隊に囲まれたまま参議院の本会議が開かれず「自然承認」という形で成立するのだが、この混乱の責任を取る形で、岸信介は総理を辞職。

この後を継ぐのが池田勇人、と、こういう話になるわけだ。

いや、長い前フリだなあ。

安保改定の大混乱の後の総理をどうするか、というのは、なかなか難しい問題だった。
池田側近の大平正芳(この人も後に総理になる)は「今度はやり過ごしたほうがいい」と諌めたらしい。

だが池田は
「君はそういうが、俺の前には政権というものが見えるんだよ」
といったという。

そして「総理になったらなにをなさいますか?」
と聞く秘書に、こう答えたのだそうな。

「それは経済政策じゃないか。所得倍増でいくんだ」。

国のあり方をめぐって、国論を二分する混乱のあとに、「みんなでもっと豊かになろう」という政策を旗印を掲げる。これは、戦略として「正解」であろう。

著者によれば、この「所得倍増」というのは、三人の「敗北者(ルーザー)」の合作であるという。

一人目は、池田勇人、その人だ。

池田という人は、東大ではなく京大をでて戦前の大蔵省に入った。
この時点で当時としては、すでに出世コースからは若干落ちたところにいるわけだが、あろうことか入省して数年のうちに、「落葉性天疱瘡」という奇病にかかる。

当時「世界に3人」の病気で、東大の医学部教授から「治ったら奇跡だ」といわれたという。
5年間の闘病生活。
その間、看病に献身した妻が先に亡くなり、2年間の休職しか認められない大蔵省からは、当然退職する。
奇跡的に病気から復活したときはすでに34歳。

ここで運よく大蔵省へ再就職が認められる。
ただし、当然ながら出世コースからはまったく外れたところで、ひたすら税金の分野を勉強し、頭角を現す。
ついに主税局国税課長になったときには「大蔵大臣になったときより、総理大臣になったときより喜んでいた」という。

そんな池田に戦後、転機が訪れる。
出世が遅く、エリートからあまり相手にされない役人生活を送ったがゆえに多くの後輩に慕われていたところに、公職追放によって「上」の人間がいなくなってしまったのである。

そして戦後2年目(1947年)には大蔵事務次官、その後、周囲の進めにしたがって、選挙に出馬、初当選で吉田内閣の大蔵大臣になり、その道が総理大臣へと続くことになる。


二人目のルーザーは、池田勇人の後援会事務局長を務めた、田村敏雄。

東京高等師範学校から東大経済を出て大蔵省に入省。
第一高等学校→東大法学部という出世コースからは、やはり若干外れた経歴の持ち主である。
国内での出世より、当時の満州国に活路を見出した彼は、満州国の財政部に渡る。

そこで大蔵官僚の枠をこえ、教育行政でも活躍するも、戦後、5年間ソ連に抑留され、帰国後、「池田蔵相」が「あの池田勇人」であることを人に知らされ、会いに行くことを勧められる。

そして、裏方として池田を支えていくことになる。

三人目の「ルーザー」はエコノミストの下村治。

東大経済学部を出て大蔵省に入省。
だが、在学中に結核を発病し1年卒業が遅れたのを皮切りに、数年おきに結核で倒れ、そのたびに行政官としての出世の道が閉ざされていく。

1950年、大蔵省官房調査課という部署で官房専門調査官という職につく。
その経済学の知識を惜しんだ役所が下村のために用意した職といわれ、当時の官房調査課は「サナトリウム」といわれるほど胸を病んだ人が多い、まあ「窓際の部署」であったという。

ここで、下村は、経済学の勉強会を主催し、所得倍増政策の理論的枠組みを作っていく。

さて、この3人が、どのように「所得倍増」という稀代のキャッチフレーズを生み出し、それに理論的な裏づけをし、そしてどう実行していったのか、という話は、本書に詳しいので、興味がわいた方は読んでください、と、いつものように逃げることにする。

池田勇人は結局、喉頭ガンのため(ただし、当人には告知はされなかった)、東京オリンピックを花道に総理を辞職する。

おそらくは、戦後「一番恵まれた時代の総理大臣」であったのではないか?

所得倍増というのも、当時の経済情勢からいって、けっして「ミラクル」が実現したわけではなく、理論的に十分可能な範囲の成長だった。

また、側近の宮沢喜一によれば「池田の見る公文書には、まだ『公害』という言葉はなかったはず」だという。

つまり、経済発展の「負」の部分には直面せずに済んだ。


とはいえ、当時「所得倍増」を「無謀」と断じ、「もっと安定成長を軸とした政策を打ち出すべき」という論調も多かったそうだから、その中で、果敢に夢を語る総理大臣をもてたことが、高度成長の原動力だったことは間違いない。

ヨーロッパ訪問時には、当時のフランスのド・ゴール大統領に「トランジスタのセールスマンが来た」と揶揄されたわけだが、それくらい、日本のものを海外に売ることが、自分の使命だと心得ていたのである。

今でこそ、いろんな国の首相や大統領が「トップセールス」にいそしんでいるが、当時は珍しいことだったらしい。

そして、たとえバカにされても、日本のためにそれが出来る人だった、ということである。

ま、このころはまだまだ、日本は世界に追いつくことが目標で、為替レートは固定相場。

経済というものは極めて単純だった。

本書にあるエピソードなのだが、
通産大臣当時の池田が「国民所得というものがよく分からないので説明してくれ」というので、
部下の官僚が「生産・分配・支出の3つの側面があり、それぞれの額がぴたり合うようになっている(=3面等価の原則。フツーに大学1年の経済学、下手したら高校の「政治経済」で習う)」ことを教えると、
池田はその場で統計資料を見ながらソロバンで計算し、「本当だ」と、とても面白がった、という。


まあ、大学では「マルクス経済学」中心に教えていた時代ですからね。

大蔵省出身の大臣にして、これでもすんだ時代、ではある。

今の時代の政治家は、その何倍(何十倍?)も複雑な現実に向き合わなければいけないわけで、単純に比較するのは酷だと思うけれど、でも、でも、やっぱりなあ。

池田は人の話をきく、ということに優れた能力をもった人だったという。

そう、知識は人から聞けば入ってくるのである。

けど、志は、ね。

そういえば、もうすぐ総理大臣が変わるらしいけど、どんな人がなるのだろう。。。