消費者に媚びるのは「社会的責任」じゃないんだよね ― 『それでも企業不祥事が起こる理由』國廣正 著

過日、このブログに書いた『修羅場の経営責任』の著者、国廣正氏が“本業”について書いた本を、たまたま手にしたので、メモ的に書いておくことにする。
まあ、実務よりの本なので、興味のない方には全く関係のない本なのかもしれないが。

それでも企業不祥事が起こる理由

それでも企業不祥事が起こる理由

騒々しいシャッター音と瞬くストロボの中で、“偉い人”が謝罪会見をする・・・そんな光景が「テレビでおなじみ」になってしまったのは、いつの頃からだろう?

個人的には、それは、CSR(企業の社会的責任)とか、コンプライアンス(一般的には「法令遵守」)、危機管理などといった言葉が盛んに言われるようになったのと、ほぼ同時期の出来事なのではないか?、という気がする。
そしてそれは、多分「バブル崩壊」なんてことが言われ始めたのと同時期のことだろう。

とすれば、山一證券の自主廃業が決まった際に、原因究明のための調査委員会に弁護士として携わった著者は、まさにこの分野を語る最適任者といえるのかもしれない。
(なお、本書の著者略歴には、この件は一切触れられておらず、本文にも全く取り上げられていない。初版は2010年7月だが、この時点ではまだ、そこを「ウリ」にするのははばかられたのかな? 本書の本質とは全く関係ないのだが、ちょっと興味を引かれた点ではある。)

本書はまず第1章で「コンプライアンスとはなんだろうか」という問題提起と、全体に流れる考え方を述べる。
そして、リスク管理、企業内情報の不正使用(情報漏洩)、コンプライアンスの意識を社内に定着させるための方法論、「形式的な文章化、マニュアル化」ではない内部統制の意味、広報や情報発信のあり方、不祥事を興してしまった後の、調査や第三者委員会のあり方・・・といった問題を、実際の事件を素材にとりながら語っていく。

言及されている事件は、NHKや日経によるインサイダー取引ダスキンの添加物入り肉まん・パナソニック(事件当時は松下)のファンヒーター関連・花王エコナ船場吉兆ささやきお上・・・と、どれも「ああ、そんなニュースあったなあ」という感じではある。
むしろ、主だった事件はすべて網羅している、というべきなのか。


コンプライアンスとはなんだろうか」という問いに対して、著者はまず、ガス機器メーカー、パロマの事件を取り上げる。

パロマの給湯器で一酸化炭素中毒の死者が出て、その責任が問われたという事件だが、この問題、発端は「パロマの製品が不良品だった」ということではない。
パロマの給湯器は、ファンで換気ができなくなると、停止するよう安全装置が組み込まれていた。
そこで、コントロールボックスが故障し、使えなくなった給湯器を、とりあえず使えるようにするため、修理業者(パロマではない)が、ファンが回っていなくても点火できるように改造していたのである。

だから、製品に関する法律論からいうと、この事件で悪いのは改造(不正改造)を行った修理業者であって、パロマではない、といえる。
事実、パロマの社長は「パロマはむしろ被害者である」と主張もしたらしい。
この点について、著者は「法律論としてパロマ製造物責任を認めるのは困難だろう。にもかかわらず、コンプライアンスの観点からは、パロマは企業として非難されなければならない」という。
なぜか。

パロマは死亡事故の発生を受けた当時、修理業者に「不正改造をしないように」と注意喚起していた。
だが、たとえば、マスコミを通じて消費者に注意喚起を行ったり、不正改造された湯沸かし器がほかにもあるのか調査したり、といった措置は取らなかったのである。
そのため、その後も事故は続き、複数の人命が失われることになったのである。
著者の言葉で言えば、法的責任があるなしに関わらず、「人が死亡する事故が続発しているという重大リスク情報を持つ企業は、それを公表して次の事故を防ぐというのが企業に対する社会的要請である」。
パロマはそうした要請に応えなかった。


多分、このような事例で弁護士に意見をきくと「法律的には、そのような義務はありません」という答えをするだろう、と著者はいう。
だが、企業は法律や裁判所だけを相手にするのではなく、社会やマスコミを相手にしなければいけないのだから、弁護士に頼るだけでは充分ではない。

そもそも「コンプライアンス」を「法令遵守」と訳すのは誤解を招きやすいのであって、その本質は「企業に対する社会的要請を正確に把握して、これに応じた行動を取ることである」・・・というのが、著者の主張だ。

ちなみに、complianceを辞書で引くと、1(要求、命令などに)応じること,応諾,追従 、2 人の願いなどをすぐ受けいれること,迎合性; 人のよさ,親切、とある。法律に関わる文脈では「法令遵守」になるんだろうが、たしかに、そこに限定された言葉ではない。

で、「コンプライアンス」の中核をなすのはルールに従ったフェアプレー(公正な企業活動)である。
それは「会社内」や「業界内」だけで通用するものであってはならない。
そんな視座をとる故に、「企業不祥事の続発を見て、『昔はこんなことはなかった。最近は日本企業の質が落ちた』と嘆く人がいる。しかし、この理解は正しくない。企業行動は変わっていない。変化したのは社会のほうである」という著者の見方がでてくる。

(なお、パロマの社長は結局「事故は予測できた」として「業務上過失致死」で有罪となった。製造物責任云々ではなくて、こうした「社会的要請」に応えることが「業務である」と認められた、ということだろうか。
この辺、本書には詳しく書かれていないし、法律論にも詳しくないので、厳密な判決理由の論理はわからないけれど)

では、ルールは、どう変わったのか。そこで企業はどう行動するべきなのか。

こうして本書は、具体的な内容に入っていく。
そこはまた例によって「興味がある方は原本をお読みください」なわけだが(このパターンもそろそろ飽きてきたな)、
たとえば
・顧客のサインがとれればいいのではない(ちゃんと説明しないで承諾のサインだけとっても、かえって後で大事になるからちゃんと説明せい)
・家族や子供に説明できるか?(解りやすく部外者に説明できないことは、やっちゃいけない)
・悪意者も想定しておけ。「うちの社員に限って・・・」という言い訳は通用しない。個人情報保護法の細かい知識を社員に求めるよりも「社内情報を持ち出すような社員は、持ち出す情報が一件であっても厳罰に処す」という強いメッセージを出したほうが抑止力がある
といった感じである。

「消費者とどう向き合うべきか」についても一章がさかれ、「『絶対安全』は不可能なのに、それを要求する消費者」に対して、どう対応していくかについても考察されている。
読む限り、そこに特効薬はないようだが、初動を間違えたり、とりあえず、消費者との対話が不十分だと、マスコミを巻き込んで暴走が始まってしまうので、そこの部分をきちんとマネジメントすることは大切ですよ、というのが著者の考えのようだ。

なお、花王エコナは「発ガンの可能性が完全には否定できない」(証明はされてないけど、多分大丈夫)という段階で、こうした「暴走」によって葬られてしまった例のようである。著者によれば。

消費者との関係について、著者は、こんな風にも語る。
「消費者やマスコミの一部には、自分の首を絞めることを(それとは知らずに)声高に叫ぶ人も多い。そのような声に迎合すれば、企業は大きな無駄を出しながらも目先では非難を回避できるように見える。しかし、このような対応は、長い目で見ると日本社会の劣化に手を貸すことであり、企業として社会的責任に反するものと評価せざるを得ない」

いや、おっしゃるとおり。
でも、そこまで毅然たる覚悟をもって、消費者と対峙するのは大変だよね。
もちろん「謝らない」は論外だが、ただただ謝りゃいい、ってもんでもないし。
社会をよくするのは、企業だけが責任をもつものではなくて、消費者も責任を持つべきもの、なのだろうが。

なお、著者の国廣氏は、共著だが『なぜ企業不祥事は、なくならないのか』といった本も出されている。
興味のある方は読まれるといいかもしれない。本書を読んだ感じでは、多分、いい本だと思います。うん。

ちょっと「お勉強」じみた内容になっちゃったかな、今回は。
まあ実務よりの本だから、しかたあるまい。