電子書籍について考えていたら、中島敦を思い出した

このところ、電子書籍についての話題に関心をもって、色々とネットで記事を読んだりしている。

その昔、仕事で写真を撮ったあと、時間に間に合わせるためにフィルムをバイク便に載せて現像に出したことなど「おじさんの昔話」になり、レコードやカセットテープがCDやMDを経てiPod全盛になってしまったことも考え合わせると、電子書籍の普及というのも、案外早いのだろうなあ、と思いつつ。

本屋や、ブックオフはどんどん姿を消していくのかな?
図書館も、どんな形になっていくのだろう?

本に書き込みをしたり、付箋を貼ったり、という行為も変わるはずだ。

「本が場所をとる」という問題も解決され、「邪魔だから本を売り飛ばす」ということもなくなるのだろう、
検索という行為によって、本の中身を把握したり、知識を整理する方法もだいぶ変わるに違いない。
それはきっと、恐ろしく快適な未来、であるはずだ。


そして同時に、本の重みを手にする充実感とか、ページをめくる快感とか、分厚い本を何冊も読み終えたときの達成感は、確実に失われる。

その結果、読書の行為が持つ意味も変わっていく。そのことで失われる、なにか「大切なもの」もあるのだろう。
読書という体験が、より軽くカジュアルになっていく。
それは、なにか、読書というものの価値を暴落させて、ひいては人間をより軽くしていくのかも、という気もする。

でも、この流れは、もはや誰にも止められない。
いつの日か、紙の本しかなかった時代を思い出して、ノスタルジックな思い出に浸る喜びくらいは、許されるとしても。

・・・などと、センチメンタルなことを考えていたら、中島敦の「文字禍」という掌編を思い出した。

中島敦という作家を知ったのは、高校の国語の教科書に、代表作の「山月記」が載っていたからだ。
膨大な漢籍の知識を背景にした独自の文体は、「凄い」とは思うが、好んで読みたいと思うものではなかった。

だから、その後、中島敦の本なんてほとんど読んだことはないのだが、それでも、この話を知ったのは、阿刀田高がエッセイで紹介しているのを読んだからである。


「文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。」という書き出しで始まる、この物語の舞台は古代のアッシリア
その宮廷で、図書館から毎晩怪しい声が聞こえる、という噂がたつ。
これは文字の霊の仕業ではないのか?
(以下、ネタバレはいります)

アッシリアの大王から調査を命じられた老博士ナブ・アヘ・エリバは、図書館にこもって、文字の霊について調べ始める。
紙もパピルスもないアッシリアで、本といえば、粘土板にくさび形文字が刻まれたもの。

その文字を見つめているうちに、博士は不思議なことに気づく。
文字がだんだん、ただの線の連なりに見えてくる。バラバラの線がなぜ音と意味を持つのか?
霊の力なくして、そんなことがあり得ようか?

文字の霊の存在を確信した博士は、最近文字を覚え始めた人々をつかまえて、調査を始める。
そこで恐ろしいことに気づくのだ。

「文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損うことが多くなった。これは統計の明らかに示す所である。文字に親しむようになってから、女を抱いても一向楽しゅうなくなったという訴えもあった。
〈中略〉
今は、文字のヴェイルをかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々はものおぼえが悪くなった。これも文字の精のいたずらである。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない」

やがて、このまま文字の霊の研究を続けていると、気が違ってしまうのではないかと感じた博士は、早々に研究報告をまとめて大王に提出する。
「このまま文字の崇拝を続ければ、武の国・アッシリアはやがて後悔することになる」といった意見を付して。

当代一流の文化人であった大王は、この報告に立腹し、博士は謹慎を命じられてしまった。
博士は、これを「文字の霊の秘密を暴いてしまったため、文字の霊に復讐されたのだ」と信じた。

そして、文字の霊による復讐は、これにとどまらなかった。
数日後、大地震がおこり、自宅の書庫にいた博士は大量の蔵書(粘土板)に押しつぶされて、圧死してしまったのである。


・・・どうですか? 本好きの高校生なんかが読んだら、魅了されそうな物語でしょ?


多分、この博士が気づいてしまったように、文字を使いこなすことで人間が失ってしまったもの、というのは、あるはずなのだ。

古代ギリシャユリシーズとか、日本の古事記とか、時代の近いところでは、アイヌユーカラとか、無文字文化で受け継がれてきた物語には、原初的な強さがある。
そして、こうした物語は、ホメロスとか、稗田阿礼とか、知里真志保のような、驚異的な記憶力をもった天才が受け継いできた。

文字を覚えた文明から、そうした物語がつむがれることはなくなったし、そうした記憶力をもった人々もいなくなった。
もちろん、その代わりに人々が手にしたものは膨大なのであって、誰も過去に戻ろうとはしないのだけれども。



そういえば、古代ギリシャソクラテスは書いて記録すると、頭を使わなくなり、考える力が減ると考え、文字を使うのを嫌っていたのだそうだ。
だから、ソクラテスの著書というのはない。
全て、弟子のプラトンが書きとめたものだ。
そして、書きとめる=文字を使う弟子がいたからこそ、ソクラテスの思想が時代を超えて伝えられたという矛盾。


ワープロ、パソコンが普及し始めたとき、人が漢字をかけなくなる、ということが危惧された。
実際、昔に比べて、漢字がかけなくなった人は増えたが、最近はあんまり、それを危惧する声は聞かれなくなったような気がする。
まあ、漢字検定は一部でブームになっているけれど。

たとえ、失われるものがあったとしても、進歩をとめることは誰にも出来ないし、とめるべきじゃない。
なにが失われてしまうのか、もしそれでも守るものがあれば、それは何なのかを考えつつ、変化に対応していくということと、それは矛盾しないだろう。

とはいっても、なにしろ、昨今は、変化のスピードが早いので、どうも、自分を含めた世の中の人の大半は、ついていくのに精一杯で息切れしているようにも見えるのだけれど。


(なお「文字禍」は青空文庫で読めます。http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card622.html


それにしても、なんだか、たまにこういう文章を書くと、なぜかこっぱずかしくなってきますね(笑)

あ、ユリシーズとか、ソクラテスとか、あまりつっこまないでくださいな。
別に詳しいわけでも、なんでもないので。