歴史や道徳を教え込んだって、「かつての素晴らしい日本」は取り戻せないんじゃね?−『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』 山岸俊男著

ブックオフをうろついていたら、帯の『「武士道」「品格」が日本をダメにする!』という文言が目に留まって購入した一冊。
けっこう「あたり」でした。

こういうのは、うれしいですね。

著者は社会心理学者。
『信頼の構造』『社会的ジレンマ』といった著書の評価が高いらしい。

本書の初版は2008年2月。
ちょうど牛肉偽装事件やライブドア事件などの企業不祥事が相次いだりして、
「いつから日本人は、こんなに『ウソつき』で品性下劣になってしまったのか」
「日本人の心は荒廃してしまったのではないか。もっと本来の美しい日本人を取り戻さなければ・・・」
なんていう議論が高まっていた頃である。

著者も、マスコミなどから、そういう視点で意見を求められることがあったらしい。

参考までに、今、ちょっと検索してみたら、「日本のすばらしさ」を褒め称え、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神を大切にすることの必要性を高らかに謳った『国家の品格』という本がベストセラーになったのは、2006年のことであった。
06年12月の時点で226万部のベストセラーとでていたから、まあ最近で言えば『もしドラ』並みと考えればいいのか。

この本の中に『国家の品格』に対する直接の言及はないけれど、『「武士道」「品格」が日本をダメにする!!』という、なかなかに刺激的な文句からいっても、かなりその辺を意識して書かれているのは確かなようだ。

では、なぜ、武士道や品格は日本をダメにするのか?

そもそも日本人らしさとか、日本人の美徳とはいかほどのもので、それがなぜ生まれたのか、というところにカギがある。
日本人は常に謙遜していて、組織や集団を第一に考えていて、一人だけ目立つことがキライ、みんなで協調して共同作業するのが得意だというステレオタイプがある。
はたして、本当なのかどうか。

ある文化心理学者が行った、こんな実験があるのだそうだ。
・空港で旅行者に簡単なアンケートを行う
・その際に、「協力して下されば、お礼に、アンケートの記入に使ったペンを差し上げます」といってペンを差し出す。
・そのとき、差し出すペンは5本。全て同じ形をしているが、外観の色が違うものを1〜2本混ぜておく。

この実験、実はアンケートの中身はどうでもいい。
5本のペンの中で「多数派」と「少数派」のどちらのペンを選ぶのか? を調べるのである。

結果、アメリカ人は過半数が「少数派」を選ぶのに対して、東アジア人では2割に満たなかった(つまり、「皆と一緒」を選ぶ傾向が強かった)そうだ。
そして、専門誌には「東アジア人には、『相互協調的自己感』が共有されていることが確認できた」と結論づけた論文が載せられたのだが、著者はこれに疑問をもつ。

人間がある行動をしたからといって、その行動が本当にその人の心を反映しているとは限りません。
部下が上司に向かって「ボスはすごい人ですね」と賞賛したからといって、その部下が上司を尊敬していると決めつけているのは早計というものでしょう。
(中略)「ここでとりあえず褒めておけば、上司との関係が良くなる」という打算が知らず知らずのうちに働いている可能性も大なのです。

それ、知らず知らずじゃなくて、意識的にでしょ? という人もいるかもしれないが、それはともかく(笑)、日本人の「本音」を探るべく、著者はこの実験に手を加える。

日米の学生計600人に、上記と同じやり方でアンケートをとる。

ただし、今回は、室内で実施し、「好きなペンをご自由にお取りください」といった後、質問者が退出する。
つまり、「誰も見ていない状況で、本当に自分の選びたいペンを選ぶ」状況を作るのだ。

すると、日本人でも「少数派」のペンを選ぶ人が、明らかに増えるのである。

さらに、同じ条件で、質問に「あなたの後、4人の方に同じアンケートに答えてもらいます」と付け加える(つまり、自分が少数派のペンを選らんだ場合、後の人が選択できなくなるといういう状況を作る)場合と、「あなたが最後です」(つまり、どれを選んでもほかの人の選択には影響しない状況を作る)とした場合を比較する。

すると、後者のほうが少数派のペンを選ぶ人は増える。

これで、なにがわかるのか?

「他人が見ておらず、自分の行動が他人に及ぼす影響を考えなくてもよい状況」をつくると、アメリカ人も日本人も、行動にそれほど差はなくなってしまうのである。

この他にも、著者は日本人の「本音」を心理学的手法でいろいろとあぶりだしていく。
その結果、古くから日本人の行動様式と見られていたものの多くは、日本社会の構造によって形作られたものであり、日本人がそういう行動をとるのは「そうすることが、この社会において有利だったから」と喝破する。

もちろん、日本社会といっても、時代によってその構造は変化する。

例えば、戦国時代。

戦国時代の武士たちは下は足軽から上は大名まで、現代のアメリカ社会と同じように、みなが実力主義の原理で働いていました。江戸時代の武士たちが主君への堅い忠誠を誇っていたのとは対照的に、自分の能力をきちんと評価してくれない「上司」ならば、さっさと見限って転職するべしということが戦国時代の常識であったと言います。

これに対して、戦後サラリーマン社会はどうかというと・・・。

日本のサラリーマンが会社に忠誠心を示すのは、そう振舞うことが日本の社会において最も適応した行動であるからに他ならない――わかりやすく言うならば、会社に対して忠誠心を示したほうが何かとトクをするから、そうしているだけにすぎない。
(中略)
戦後長らく続いた終身雇用制度の下では、日本のサラリーマンはアメリカ人のように転職によってキャリアアップすることが事実上、不可能だったので、出世しようとするのであれば、自分が今現在、属している会社での評価を上げることしかありませんでした

では、「主君に滅私奉公する」ことが美徳とされた江戸時代から、「会社人間」を生み出した戦後までを貫く日本社会とは、どんな社会だったのか。

著者は、これを「安心社会/信頼社会」という対立項で解説する。

江戸時代以降の日本社会は、基本的に「安心社会」である。

閉じた環境にいるため、その集団の中にいれば「安心」が制度的に保障されている。
そして、その中で、悪事に走ったり、裏切ったり他者に非協力的な態度をとれば、自分にとっても損になる。
場合によっては、集団から追放されてしまう。

逆説的なようだが、こういう社会では「人への信頼」はあまり必要とされない。
メンバーがお互いを監視しあい、「集団からの追放」も含めた制裁のメカニズムが出来上がっているので、その集団の内部にいる人に関しては、「その人が信頼できるかどうか」を考える必要がないのである。

その一方で、集団外の人は基本的に信用せず、「人を見たら泥棒と思え」と考えたりするのが、「安心社会」の特徴でもあるという。

一方のアメリカ社会は「信頼社会」。

これは、「他人を信頼する」と同時に「自分が信頼される人間であるように振舞う」ことが必要とされる社会である。

著者の実験によれば、日本人よりもアメリカ人のほうが「他人を信頼する」傾向は強いのだそうな。
ただし、これを細かく見ていくと、けっして「誰でも信用する」ということではなくて、「相手が信用できるかどうか」を注意深く見極める傾向が、日本人よりもずっと強いのだという。
(日本人は、仲間やよく知っている人なら信用する、それ以外は信用しない、という判断をする傾向が強く、「注意深く見極める傾向」には乏しい)

そして、「自分は信頼できる人間である」と相手に判断してもらわないと、社会生活に支障をきたすので、正直とか公正といった美徳に(時に異常なまでに)重きを置く。

実は、「正直」とか「公正」というのは、「安心社会=旧来の日本社会」では、それほど重きを置かれていないのだ。
たしかに「主君を守るために、ウソを貫き通す」なんて話は、歌舞伎や時代劇でも「美談」である。
会社を守るために身をはってウソや不正をしてしまう哀しいサラリーマンも、この延長線上にある存在なのかもしれない。

信頼社会と安心社会、どちらが上、ということではない。
アメリカ人が「正直」で「公正」なのも、日本人が「仲間や組織を大事にし」「和を尊ぶ」のも、そうした方が、その社会に適応しやすかった、ということである。
(アメリカの自己啓発系ビジネス本に、「正直であること」「公正であること」と「経済的な成功」が一直線に結びついた内容が多いのも、それを読んだ日本人がときに「なんだよ、金儲けのための正直かよ」と一瞬鼻白んでしまうことがあるのも、この辺の齟齬かもしれない。え?特に「鼻白んだり」はしないですか?)

歴史的にみれば、「安心社会」のほうが、「信頼社会」よりも歴史が古く、戦乱や飢饉のような不穏な状況が無い限りにおいては、「安心社会」のほうが「信頼社会」よりずっと安定した社会が提供できる、と著者は言う。

ただ、日本において「安心社会」をつくってきたような、閉じたコミュニティで仲間内で助け合って生きていくという仕組みが、どんどん崩れていっているのは事実。
それは、会社で言えば、日本企業が終身雇用を守れなくなってきていることでもあるし、国内の人口動体で言えば過疎化と都市化、世界的に見ればグローバル化ということになるのだろう。

もちろん「完全な安心社会」「完全な信頼社会」というものはなく、それぞれの要素を併せ持って、世の中は続いていくのだろうが、少なくとも日本人にとっては「信頼社会」に対応する力をどうやって付けていくかというのが課題になる。

本書によると、都市論や経済学で様々な業績を残した、カナダのジェイン・ジェイコブズという学者が、『市場の倫理 統治の倫理 (日経ビジネス人文庫)』という本で、「信頼社会」と「安心社会」には、それぞれ異なるモラルの体系があることを指摘しているそうだ。

それによれば、「信頼社会」のモラルは「市場の倫理=商人道」であり、「安心社会」のモラルは「統治の倫理=武士道」なのだという。
前者には、「他人や外国人とも気安く協力せよ」「正直たれ」「契約尊重」「勤勉たれ」「楽観せよ」といった項目が含まれる。
後者は、「規律遵守」「忠実たれ」「勇敢であれ」「排他的であれ」「名誉を尊べ」といった具合になる。

日本社会では、なんといっても「武士道=安心社会のモラル」が人気があるけれど、実はそれだけでは、現代のような社会は回らないということである。

ちょっと話はずれるのだが、評論家の呉智英が著書のなかで(ちょっと今、タイトルが思い出せない・・・。すんません)「ジャーナリズムにも正義より商人の倫理が必要だ」といった趣旨のことを書いていたのを思い出した。
「俺たちは正義だ! 俺たちが社会を導くんだ」と傲慢に振舞うよりも「お金を払って読むに値する、他に無いような正確で早い本当の知識を提供して欲しい」という趣旨である。
なんか、社会を混乱させたくないという配慮からか、本当の情報を隠しているかのように見える大マスコミを見ても、原発事故に衝撃を受けるあまり、勇み足でデマを拡散してしまう一部のジャーナリストを見ても、なんとなくこのことを思い出す・・・と、これは余談ですが。

さて、どうしたら「信頼社会」のモラルをもっと日本社会に定着させることができるのか?
「〜するのが正しい」と、教育で教え込むことには、著者はあまり肯定的ではないようだ。

たとえば、「正直であれ」というモラルを人々に教え込んだとき、それを「絶対に守ろう」というマジメな人々を、「正直でない」人たちが利用してしまう可能性も、残念ながら私たちの社会には、強く残っている。
そもそも、強制的に「モラル」を押し付けることはできない、というのが著者の立場でもある。

大事なのは、正直者であることが損にならない社会制度を作っていくことであって、そうした社会制度をきちんと整備することができれば、あとは「正直に行動し、他人を信頼することが結局は自分のためになるのだよ」という世の中の現実を教えさえすれば、商人道は自ずから普及していくのではないでしょうか。

うーん、まあ「言うは安し、行うは難し」の感はありますが・・・。
ただ、「昔はよかった。昔の日本人は素晴らしかった。だから昔を学べ」という思考停止からは、身のあるものは生まれない、というのは確かな気がします。
ま、「昔は良かった」っていうのは、すごく居心地のいい考え方であるのは、事実なのだけれども。

なお、本書にはそのほか、いじめに関する考察など、読みどころはいろいろあります。
さらに言えば、この本自体が著者の研究をわかりやすく語りなおしたもののようなので、より詳しく知りたい人は、是非、そちらもご参照くださいませ。
・・・と、こういうことを書くということはつまり、「この人の本、始めて読んだけど、面白かったですよ」ということである。