まずは一つの立場から学んでみようと思ったわけで ―『「反原発」の不都合な真実』 藤沢数希著

今回取上げる本は、amazonでは今日現在、「通常10〜14日以内に発送します」と表示されている。
ということは、なかなかに注文が殺到していて、在庫が払底している、ということである。
このブログの中の人は、都内の某書店で手に入れたわけですが。

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

「反原発」の不都合な真実 (新潮新書)

著者の藤沢数希氏。多分、知っている人は知っているし、知らない人は全く知らなくて、知るきっかけも持てないのだろうな。
先刻ご承知の方には今更な情報になるが、「金融日記」というブログで多くの読者を持つ、「ネット言論界」の旗手の1人。
その言論は、新自由主義的な思想に貫かれており、キライな人は大嫌いな論者なのだろうが、このブログの中の人は、けっして“新自由主義信者”ではない、と個人的に思っている。

本書の著者紹介から引用すれば、こんな経歴な人だ。

欧米研究機関にて、計算科学、異論物理学の分野で博士号取得。その後、外資投資銀行で市場予測、リスク管理、経済分析に従事しながら、言論サイト「アゴラ」に定期寄稿する。著書に…<以下略>

素性を明かしておらず、名前が本名なのかどうかもよくは知らないが。
googleで検索すると、関連ワードとして「藤沢数希 正体」などと表示されるたりするくらいで、世間にも正体を知りたい人は多いようだ。

この本、一言でまとめるとするならば題名からもすぐに察しがつくように、3・11以降、著者がネット上でも繰り広げてきたという“反・反原発”の言論の、一応のまとめといったところだろうか。

まずは冒頭、原発問題の本質、つまりエネルギー問題について、著者はこのように書く。

現代社会の人々は、エネルギーなしでは数日の間で生存できなくなってしまいます。水も食料も運べませんし、都市ではエネルギーが無ければ人間の排泄物の処理さえできないからです。そういう意味では豊富はエネルギーが人間の命をまさに守っている、といえます。しかし同時に大きなエネルギーは人を殺してしまいます。<中略>
 このようにエネルギーとはそもそも危険を内包しているものなので、その安全性の評価は相対的に何がよりマシなのか、というものにならざるをえません。

どうも誤解があるようなのだが、あくまで原発イイぞ! どんどんやれ! という話ではなく、あくまで相対的な比較と評価の問題である、というのは、落としてはいけないポイントだろう。

さて、論点はいろいろある。

まずは安全性の問題。
今、世界の総発電量のエネルギー源別に見ると、石炭(41%)、天然ガス(21%)、水力(15.9%)、原子力(13.4%)、石油(5.5%)、その他(2.8%)となる。
では、そのリスクについて、著者はこう書く。

石炭などは採掘で採掘でおびただしい数の人が死にます。たとえば、中国では政府の公式統計だけで毎年数千人が石炭採掘の際の崩落事故などで死んでいます。<中略>
大気汚染による死者数にはさまざまな統計がありますが、WHOは年間115万人ほど死亡すると報告しています。<中略>
石油産業や自動車産業は非常に強い政治力を持っているので、あまり大気汚染のことがマスコミ等で報じられることはありませんが、後述するように健康被害の明確な科学的証拠がほとんどみつからない低放射線と違い、大気汚染の人体への影響は明白です。たとえば中国では石炭で80%ほどがなくなるといわれています。

ま、低放射線健康被害の明確な科学的証拠が無い・・・というところに色々と議論はあろうが、その点は著者も「後述する」といっているので、ここではおくとして、たしかに、火力発電や自動車の大気汚染の健康被害というのは、近頃はあまり論議されない。

かつては、日本でも、それなりに大きな問題として注目を集めた論点ではあった。
四大公害病の一つと知られる四日市喘息(ぜんそく)。この事件の被告企業に、中部電力が入っている。
もちろん、火力発電所による大気汚染が、喘息を引き起こしたのである。

1967年には、四日市の塩浜中学校3年生の女子生徒が、「四日市よりきれいな空気が吸える」と楽しみにしていた修学旅行の直前に喘息による心臓発作で、15歳の若さで急死しまい、マスコミで大きく取上げられました。経済成長著しい現在の中国の大都市は、高度経済成長の時の日本と同じような状況です。

本書では触れられていないが、このとき、「きれいな空気が吸える」と、この中学生の女の子が楽しみにしていた修学旅行の行き先とは、なんと、東京だった。
それだけ、四日市コンビナートの周辺の空気というのは汚染されていたのだ。そしてまた、それだけの犠牲を強いたからこそ、三重県は比較的豊かな県だったりしたわけだが。
彼女がなくなったとき、「彼女が死んだなんていうな殺されたのだ」という言葉が、反公害運動のスローガンとなった。

他にも、太陽光や風力といった自然エネルギーが現在抱えている問題点、原子力発電の基本的な仕組みなど、とりあえずの基本情報も簡潔にまとめられている。
むしろ私たちは、あまりにもそういった知識が無いままに、原子力に依存した社会を作ろうとしていたのだ、と思う。
その意味でも、こういった情報は有益だろう。

なお、著者は、「やはり地球温暖化にCO2は大きな要因であって、削減を進めなければならない」「救える命の数は経済の豊かさに比例する」という立場に立っている。
これも色々と異論はあろう。
特に後者の論点は、日本のような豊かな国からは見えにくくなるところではあるが、「経済的・物質的な豊かさだけが大切なのではない」というのは「豊かな人」の言説であって、1人当たりのGDPが1000ドルに満たず、平均寿命は45歳程度、という国はまだまだある。
そこでは「もっと節電すれば原子力発電なんていらない」なんていうのはタワゴトだろう、という気もする。

ま、「長生きするだけが人の幸せではない」とか言われてしまうとまた、議論は複雑になるわけだが。


最終章、著者は今後の展望をどう考えているのか。

現場で日夜作業している人たちに、僕たちは敬意を払わないといけないでしょう。
放射性物質を含む冷却水の処理や、致死量を上回る放射線量が測定された原子炉建屋内の調査など、次から次に難題にぶつかっては、東京電力や、東芝、日立、三菱重工のような原発関連メーカーが必死で解決策を見出そうとしています。<中略>
日本では全く報道されていませんが、これには世界の原子力関係者が驚いています。
日本のマスコミはいったん叩いてもいい存在だと認識すると、いつものように全社横並びでいっせいに原子力産業に関わる組織や人たちのバッシングを始めました。しかし、そのような中でも見ている人はしっかり見ているものです。<中略>
僕は、日本の原子力産業が、今後も世界のトップレベルの技術を維持し、世界のエネルギーに貢献し続けることを信じて疑いません。


ここからは私見になるのだが、今回の事故が明らかにした最大のものは「原子力発電の危うさ」でなく、「この国の危うさ」ではないか、と思っている。

東京電力、政府、学界のトライアングルに潜む無責任体制や、「安全神話」の形成に見る政府・マスコミ・国民の共犯関係。
安全神話は、作った人だけでなく、信じる人がいて、初めて成立するものだろうし。
まあ、こういう考え方は、往々にして責任を拡散させる方向につながってしまうので、危険でもあるのだが、やはり、複雑な関係を解きほぐすことなしに、「コイツが悪い」とつるし上げても、多分、問題は解決しないだろうし。

一方でリクツはともかく、目の前にある課題をどう片付けるか、という問題もある。
今、ゼネコン周りでは、復興需要による人手不足がコストを押し上げつつあるらしいけれど、起こったことは起こったこととして、その後をどう立ち上げるのか。
力量もないのに、こういう問題を論じ始めると、どうしても抽象的な言い方になってしまうのだが。

本書のあとがきには、こんなことが書かれている。

実は、この本の企画は別の出版社ではじまったものです。しかし国民的な反原発感情が高まる中、出版が中止になってしまいました。それを新潮社に拾っていただきました。

政府とマスコミが結託して、都合のいい情報しか流されない、というのは大問題だ。
そして、今、日本ではマスコミはかつてほど信用されてはいない。

ただ、一応は報道や言論の自由が保障された社会においては、じつは政治権力だけでなく、世論とか“世間の空気”というのが、言論に対する圧力めいた力になることも、ないわけではない。
とはいえ、こうした圧力を“規制”することはすべきでないし、おそらく、できないだろう。
とすれば、どうするか。
受け手のほうが賢くなるしかない。

その意味においても、この本とは全く違う、バリバリ反原発派の本というのも読んでみたいなあ、と思ったわけである。
単に「放射能怖い!」と連呼するだけの言説ではなしに。