先端を生きた男のみた日本社会について考えてみる ― 『漱石文明論集』夏目漱石著

最近流れているJCBカードのCMで、嵐の二宮和也くん(映画『硫黄島からの手紙』をみるまで「カズヤ」だと思ってました。「カズナリ」ですね)が、タクシーの中でカエルから「皮相上滑りの開化である」と言われるという、いささかよくわからない設定のものがある。

で、このセリフの出典について、すこし書いてみようかな、というのが、今回のお題なわけである。

漱石文明論集 (岩波文庫)

漱石文明論集 (岩波文庫)

大体、夏目漱石なんて、日本の文学者でこれほど研究され、語りつくされている人というのも少ないわけで、全集をのぞくと「漱石の蔵書の余白にあった書き込み」まで収録されているそうだから、安易になにか語るとヤケドするのかもしれなけれど、このブログの中の人はド素人なので、そんなことは気にしない。
で、語ってしまうと、この人、今で言えば、海外でネットカルチャーの最先端に触れてきたカリスマブロガーみたいな人ではないか、と、思うことがある。

何しろ、海外と交流が始まってまだ数十年という時代に、英文学学んで、政府から留学さそわれて、イギリスに留学して、で、帰ってきて帝大のセンセやってた(ちなみに前任者は小泉八雲ラフカディオ・ハーン)のに、いやになっちゃって、朝日新聞の専属小説家になっちゃったのである。
朝日新聞ったって、一部でマスゴミとか言われちゃったりする今の朝日新聞とは(まあ同じ会社だけど)だいぶ立ち居地が違う。
日刊新聞なんて、当時としては、とんでもなく「新しいメディア」である。
その連載小説というのは、つまり、顧客獲得のためのキラーコンテンツだったわけだ。

そんな、明治の最先端を生きた男、夏目金之助(本名)が44歳のとき、朝日新聞主催の講演旅行で語った、『現代日本の開化』という講演が、この『漱石文明論集』の劈頭に収録されている。
これもあれですね、朝日新聞専属小説家としてのお仕事の一環だったんでしょうね。

で、明治といえば文明開化の時代なわけで、開化といえば、そりゃあもう、当時もし新語・流行語大賞があれば、「10年連続大賞受賞で殿堂入り」くらいの勢いがあったのだろうと察せられるが、では開化とは何か、という問いに対して、漱石は、こう定義してみせる。
「開化は人間活力の発現の経路である」と。
そして、そこに性質の異なる二つの活動がある。1つは消極的、いま1つは積極的なものであると。

「消極的」というのは、言い換えれば「活力節約の行動」なのだそうだ。
これは、「義務の束縛を免れて早く自由になりたい、人から強いられてやむをえずする仕事は出来るだけ分量を圧搾して手軽に済ませたい」ということで、つまり、出来るだけ楽をしたいという気持ちが開化の原動力になる。
工夫が積もり積もって、汽車汽船から電信電話自動車に飛行器(原文ママ。「飛行機」ではない)も生まれてくる。

一方で、そうして活力を節約して生まれた労力や時間を、己の好きなものに費やして「活力を消耗」していくのが「積極的」な活力の発現であって、それは学問であったり、道楽だったり、と、まあいろいろあるわけだ。

そして開化が進んだ結果を漱石はどう見ているか。

いやしくもこの二種類の活力が上代から今に至る長い間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであります。けれども実際はどうか? 打ち明けて申せば御互いの生活は甚だ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の基に生活しているのだという自覚がお互いにある。否(いな)開化が進めば進むほど競争が益々劇(はげ)しくなって、生活はいよいよ困難になるような気がする。<中略>
この開化は一般に生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的柔(やわら)げられたという訳ではありません。丁度小学校の生徒が学問の競争で苦しいのと、大学の学生が学問の競争で苦しいのと、その程度は違うが、比例に至っては同じことである如く、昔の人間と今の人間がどの位幸福の程度において違っているかといえば―あるいは不幸の程度において違っているかといえば―活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかもしれないが、生存競争から生ずる不安や努力に至っては、決して昔より楽になっていない。否昔よりかえって苦しくなっているかもしれない。

ついつい引用が長くなってしまったが、どうですか? 100年前の講演に見えますかね?

考えてみれば、明治時代の変化というのは、我々がいま「もう世の中の変化が早くて」なんていうのも、まだまだ甘っちょろいくらい、すさまじいものだったに違いない。政治も社会も産業も、なにもかもが激変していったのだから。
その中で、「開化は進んでいるのに、われわれの生活は、昔より楽になっていない」という感覚を痛烈にもっていたわけだ。

漱石は、ここまでの話を「一般的な開化というもの」の解説として進めているわけだが、ここに「日本の」という枕言葉がつくと、また1つの事情が加わってくる。
それは、日本の開化が、欧米が内発的に、時間をかけて進んできたものであるのに対して、日本の開化は、その欧米の開化の成果を、開国によって突然受け入れ、とにかくも短期間で我が物として身につけなければならなかった、という事実である。
漱石いわく、「日本の現代の開化は外発的である」ということになる。

短期間に外発的な開化を遂げるには、あらゆる段階を順々に踏んで通る余裕がない。その結果「皮相上滑りな開化」にならざる得ない。
しかも、日本という国の宿命は、

それが悪いからお止しなさいというのではない。事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑っていかなけれならないというのです。

そして、さすがの漱石先生も、この「上滑り」に対する処方箋は示せない。

とにかく私の解剖したことが、本当の所だとすれば我々は日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるのであります。外国人に対しておれの国には富士山があるというような馬鹿はこんにちはあまり言わないようだが、戦争以降一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすれば出来るものだと思います。
ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申したとおり私には名案も何もない。ただ出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くがよかろうというような体裁のよいことを言うより外に仕方がない。

日露戦争に勝利した後、「もはや日本は欧米と並ぶ一等国である」という言論がいろいろあったんでしょうね。
そこを斜めな目線から語るというのは、いかにも漱石先生らしいものの言い方、というべきでしょう。

にしても、単語を一部入れ替えれば、まったく古さを感じさせない評論ですね。
皮相上滑りな開化。100年間滑り続けると、さすがに速度も落ちそうなものだが。

あ、でもあれか。常に上滑ってこられたのは、目標とすべき何かが、海の向こうにあって、それに追いつかなければならなかったからだ。
とすると、その追いつくべきなにかが見えなくなったとき、その滑り方はどうなるんだろう?
滑っていく先がないということは、つまり、どこかに「滑り落ちてしまう」ことになりはしないか。

と、もしこの考え方が本当のところだとすれば日本の将来というものについてどうしても悲観したくなるわけだが、もちろん、このブログの中の人にどう切り抜けるかと質問されても、名案があるわけがない。
ただ、出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くしかないのだろうか。。。。


とまあ、つまらないパクリをしてみたくなるくらい、漱石の評論はさえている。
この『文明論集』に収められている『私の個人主義』という講演も、英文学を学び、教師の素養なんてないと思いながらも食べて行くために教師となり、留学してイギリスの文化に触れ、文学とは何かを突き止めようとして挫折した漱石の思想が簡潔にまとめられていて、きわめて興味深いのだけど、書き出すと長くなるので、割愛。

ところで、JCB。どういう意図で漱石の言葉を引用したんですかね?
「買い物は世界を救う」というテーマの一連のCMのひとつらしいのだが、いまひとつ、その意図を図りかねている。どなたか、明快な解釈があったら教えてくださいませ。
未見の方のためにリンクをはっておくと、以下の「タクシー編」というところで見られますです、はい。
http://www.special.jcb.jp/