憎悪と単純化が何かを解決することはない ― 『ネットと愛国――在特会の「闇」を追いかけて』 安田浩一著

極めて微妙な問題をはらんでいるテーマの本なので、果たしてこれをネタに書くべきかどうか、一瞬迷ったのだけれど、やっぱり傑作ノンフィクションであることは間違いないので、やっぱりこれでいこう、と思ったわけだ。
余計な誤解を招かなように、書いていきたいと思うわけだけれど。

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

在特会。正式名称は「在日特権を許さない市民の会」。
在日韓国・朝鮮人は他の在日外国人には許されない「特権」を保持しており、日本は長きにわたって在日の犯罪や搾取によって苦しめられてきた、というのが同会の主張である。

公式サイトによれば、このブログを書いている時点で、会員数は11,875人。
もっとも、入会金や会費はなく、PCや携帯上で登録するだけの「メール会員」という制度もあるから、その数がどの程度の意味をもつのかというのは、容易に判断することができないけれども、いわゆる保守・右翼団体のなかでは、かなりの勢力を持っていることは間違いない。
在特会が自称するところによれば、「右翼」ではなく「行動する保守」だそうだが。

ネット界隈ではつとに有名な存在だから、その活動の様子をYoutubeなどで見たことがある人もいるかもしれない。
行動する保守、という自負をある意味裏切らず、街頭で過激なデモを繰り広げる団体だ。
そこで繰り広げられる言論は「ヘイトスピーチ」そのもの。このブログの中の人は、その手の言論を唾棄すべきものと考えるので、ここに引用することは差し控える。
興味あればネットで検索すればすぐに動画がみつかると思うが、その結果、嫌悪感で胸がムカついても自己責任ですよ、と申し上げておく。

本書は、この団体の設立者であり、現在も会長を務める桜井誠(本名:高田誠)をはじめ、数多くの中心的な活動家たちに直接取材して物したノンフィクションだ。

著者は、1972年生まれの、桜井のルーツを探るべく、かつて炭鉱町として栄えた北九州のとある都市に取材に訪れる。
そこで聞いた、少年時代の桜井の印象は、こんな感じだ。

私が話を聞いた元同級生たちは、誰もが同じような印象を口にした。
「無口で目立たない」
「もの静か」
「高田? そんな名前の人、いましたっけ」と、存在そのものを疑う者もいた。
〈中略〉
 そうした話を聞きながら、私はアルバムに残された高田のさびしそうな顔を何度も見つめた。そのたびに気が遠くなるような、現在と過去の彼との「距離感」を覚えた。

在特会のルーツはどこにあるのか。

米田(在特会広報局長の米田隆司=引用者注)は在特会の設立経緯について話を進めた。
在特会の母体となったのは『2ちゃんねる』のようなネット掲示板で、保守的な意識をもって“活動”してきた人たちです」
 ネット掲示板などを通じて「愛国」や「反朝鮮」「反シナ」「反サヨク」を呼びかける者たちは、一般的にネット右翼と呼称される。朝から晩までパソコンや携帯にかじりつき、「朝鮮人は死ね」などと必死に書き込む者たちの存在は、ネットが一般化した90年代以降、急速に目立つようになった。

そうした「ネトウヨ(=ネット右翼)」という土壌の中から、、ネットを通じて情報収集や交流、呼びかけを行いながら、活動をネットの外に広げていくことで出来上がったのが、在特会なのだといって大方間違いであるまい。

当初は「東亜細亜問題研究会」と称し、ネット上での勉強会の性格が強かった在特会に、大きな影響を及ぼした人物がいる。
主権回復を目指す会」という右派系団体のリーダー、西村修平
1960年代、学生運動華やかなりし頃に、運動家として活躍した人物だ。
毛沢東を読み込み、「学生訪中団」のメンバーとして文化大革命さなかの中国を訪れた経験も持つ。
だが、中国で貧しい農民の生活にふれ「社会主義の成果がこれほどなのかとショックを受け」て左翼活動から身を引いた経験を持つ人物だ。
彼は30年間、建設会社のサラリーマンとして過ごした後、再び運動の世界にもどってくる。
ただし、今度は、反中国の闘士として。

この西村修平の影響で、桜井誠は過激な運動スタイルを体得していくのだが、当の西村修平は、著者に対して、こんなことを語っている。

「最初はおとなしくて臆病な男だったことを覚えている。僕の活動におそるおそるという感じで参加していたが、ぼけえっと突っ立っているだけだった。まあ、そのころと比べれば、彼もよくがんばったじゃないか。別に僕は桜井君の保護者でもなんでもないし、彼は彼なりに活動すればいいんですよ」
どこか突き放したような口ぶりでもあったが、このときからすでに在特会との温度差を感じていたのだろう。西村はのちに桜井や在特会を激しく批判するようになる。

そう、当初、桜井誠の活動を右派や保守の立場から評価してきた“大人”たちも、その活動が過激化するにつれて、距離を置き始めているのだ。

著者は、在特会で中心的な存在となっている複数の会員の姿も、丹念に取材している。
そうして見られた“彼ら”の姿、そして彼らの背景にある社会とははどんなものなのかか。

私たちは、ちょっと気恥ずかしい思いをしながらも、希望とか未来とか言った言葉を口にしさえすれば、なんとか明日を生きることができたはずだった。
 でも、そんな時代は終わった。
〈中略〉
人間が、労働力が、資材の一つにして扱われる。そこから格差と分断が生まれる。何の「所属」も持たない者が増えていく。
 そういった状況に自覚的であろうが無自覚であろうが、「所属」を持たぬ者たちは、アイデンティティを求めて立ち上がる。そしてその一部が拠り所とするのが「日本人」であるという揺るぎのない「所属」だった。けっして不自然なことではない。

会員の中には世の中の矛盾をひもとくカギを、すべて「在日」が握っていると思い込んでいる者が少なくなかった。一部の者は、政治も経済も裏で操っているのは在日だと、本気で信じている。それを前提に、在特会こそが虐げられた人々の見方なのだと訴える。
〈中略〉
 社会への憤りを抱えた者。不平等に怒る者。劣等感に苦しむ者。仲間を欲している者。逃げ場所を求める者。帰る場所が見つからない者――。
 そうした人々を、在特会は誘蛾灯のように引き寄せる。いや、ある意味では「救って」きた側面もあるのではないかと私は思うのだ。

本書は雑誌連載がもとになっているのだが、その途中から差別や人権のために闘っている活動家の一部からは「在特会に理解を示しすぎだ」「レイシズムファシズムに対する厳しい批判が足りない」などと猛烈な抗議を受けていたようだ。
そのような批判を受けたのも、著者の、誠実な取材と筆致ゆえだろうと思う。
在特会の主張に、けっして同意するわけではなく、その言論に激しい嫌悪感をもったとしても、それはそれとして、彼らをあのような行動に駆り立てるのは何かを知りたいという著者の思いが、本の端々が伝わってくる。

著者自身、孤立した少年時代を過ごし、「今とは違う社会」を夢想しながら、様々な党派に出入りした青春時代を過ごしたらしい。

早熟だったから、ではない。私は寂しかったのだ。
〈中略〉
 彼女が欲しかった。カネが欲しかった。その頃流行したカフェバーにも行ってみたかったし、かっこいい車にも乗ってみたかった。
 どうせ自分はこんな社会では、うまく立ち回ることができないのであれば、いっそ社会なんて壊してしまったほうがいいと、真剣に思った。
〈中略〉
 だから、もしもそのとき――。私に差し出された手が在特会のような組織であったらと考えてみる。
 よくわからない。よくわからないけれど、その手を握り返していた可能性を、私はけっして否定できない。

嫌悪と共感。
その絶妙な距離感が、この本を生んだのだなあと、心底、思う。

なお、これは在特会に限った話ではないが、世の中の矛盾や不条理を、なにか一つの敵に収斂して、それを倒せばなんとかなる、という言説は大抵間違っている・・・という風に、このブログの中の人は考えている。
世の中はそんなに単純ではなくて、一つ一つの問題を少しずつ紐解いていくより他に、やりようはないと思うわけで、その意味で言えば、多分、在特会の存在を否定するだけでは、何も解決することにはならないのだろうなあとも。

そうそう。もう一点だけ言及したいことがあった。
在特会には、けっして表だって在特会の活動に同調しないけれど「陰ながら応援している」「ああいう活動を自分はしようとは思わないけれど、彼らはよくやっていると思う」というスタンスの「普通の人たち」が一定数いるらしい。
そういう「普通の人たち」と、ある意味、一線を越えてしまう人たちの差はどこにあるのだろう? なんてことを、ふと思ったりもしたのであった。

・・・やはりちょっと重かったな。この本。
そして、この短いブログで語りつくせる本でもないのであった。
いや、普段、ほかの本を取り上げたときだって、別に語りつくしているわけではないのだが。