語らないものが語ること ― 『無言館ノオト』窪島誠一郎著

そんなわけで先週は夏休みということで、このブログもお休みさせていただきました。・・・というのは、こちら側の勝手な事情なわけだが。

で、休み中、長野県某所の温泉にいったりしたわけだが、その途中でたちよった、とある絵画館にかかわる本が今回のテーマである。

無言館ノオト―戦没画学生へのレクイエム (集英社新書)

無言館ノオト―戦没画学生へのレクイエム (集英社新書)

(↑上の画像や書名はamazonにリンクしています)

無言館

信州の自然の中に静かに佇む、コンクリート打ち放しのこの建物は、一見、教会のようにも見える。

だが、そうではない。

日中戦争や太平洋戦争で出征し、帰らぬ人となった画学生、いわゆる戦没画学生たちの遺作や遺品を展示した絵画館なのである。
そして、著者は、この無言館の館主。
基本的には、無言館は、私設の美術館なのである。
土地は市から貸与を受けているそうだが、建設費の半分は銀行の融資、半分は寄付金だったそうだ。

本書の第一章には、そもそも無言館が建てられることになった発端のエピソードがまとめられている。

印刷工、酒場経営、小劇場の運営などの仕事を経て、『信濃デッサン館』という私設美術館を建てた窪島氏が、戦没画学生の絵に興味を持つようになったきっかけは、昭和52年、NHKが発行した『祈りの画集―戦没画学生の記録』という画集だった。
これは、同名の特集番組をもとに作られた画集なのだが、そのなかで、各地の戦没画学生の遺族を尋ね、遺作を撮影して歩いた編纂者の一人で画家の野見山暁治について、窪島氏は強く興味を引かれる。

野見山氏は、現役兵として出征したものの、戦地で肋膜を患い、国内の陸軍病院に強制送還されている。
そして、戦後まで生き残り、画をかきつづける。

本書の中に、野見山氏の文章や発言が引用されているので、孫引きさせていただく。

 日本の軍隊が次々と敗けている最中、私は合法的に内地へ舞い戻ったのだ。国運とは逆に私の病状は回復し、八月に終戦を迎えてから一ヶ月たったころ、退院。
 誰の目にもそれは、戦いに疲れて日本へ引き揚げてくる兵士たちの一人に見えた。日本を統治したマッカーサーは、傷痍軍人制度を廃止するために、一時金として私にも大量の金をくれた。親父は世間に恥じて、このことは誰にもいうなと忠告した。私の履歴書はこれらの事実をすべて隠している。

「別に弁解さうるわけじゃないが、この五十年はあっというまだったからねえ……仲間たちが戦死してから、生き残った我々がどれほどの仕事を残したかといえばまったく自信がないんですよ。ことによると、たとえ技術的には未熟であっても、かれらの絵のほうが何倍も純粋だったんじゃないかと思ったりするんです」

やがて、著者は、野見山氏とともに、戦没画学生を尋ね、その遺作を集める旅に出る。その後、野見山氏の心境の変化があったり、いろいろな状況の変化があったようだが、その辺の詳細は、例によって例のごとく、興味のある方は本書をお読みいただくということで。


無言館という名前には、もちろん、戦没画学生たち(その略歴やエピソードは、本書の二章に収められている)も、遺された絵も、自らは何も語らない存在である、という意味がこめられているのであろう。
だが、それだけではない。

著者によれば、戦没画学生の絵は、「ある特有の静けさをたたえいている」という。
それはなぜか。

誤解をおそれずにいえば、それは画学生たちの絵がいっぽうで「現実回避」(逃避ではない)という側面をもっていたからでもあるだろう。戦線参加を前にした彼らの唯一の逃げ場所は、まさしく「絵を描く」行為以外なかった。<中略>
 「無言」ということからいえば、むしろそれを強いられるのは戦没画学生たちの絵の前に佇むわれわれのほうといえるのかもしれない。彼らの静けさにみちた遺作群とむかいあうとき、そのけなげな「現実回避」の痕跡とむかいあうとき、ただ「無言」のまま立ちすくむしかないのは、今を生きるわれわれのほうなのである。

無言館が開館した直後、マスコミによるかなりの取材攻勢にさらされたらしい。
結果として、それは、多くの観覧者をひきつけることになり、運営の安定をもたらすことになったが、一方で、どうしても「戦争の悲惨さ」や「反戦平和」を伝える文脈でのみ報道され、作品そのものの魅力や、「絵を描くことの意味」にまで深堀されることがない、という事実に、著者は不満があるようだが。

このブログの中の人は、絵画を的確に論評するほどの鑑賞眼がないので、その点でなにもいうことはできなけれど、ただ、無言館の所蔵作品のなかに複数あった、「出征が決まって初めて、妻や恋人のヌードを描きました」という作品が、どれも、そこしれぬ力を秘めているような気がした、ということだけ記しておこう。
それは、やはり、その背景を聞いてしまったからこそ持ちえた感想なんかもしれないけれど。

最後に、無言館にある慰霊碑のメッセージの画像を、のせておくことにします。