「政治的に正しい」ことをいっても解決策にはならないということ − 『私家版・ユダヤ文化論』内田樹 著

この週末に、今回取り上げる本の著者、内田樹氏の講演会を聞く機会を得た。
主な内容は、メディア論だったのだが、その最後、あらかじめ聴講者から集められた質問に内田氏が答えるところで、ちょっと面白い質問があった。
曰く、「内田さんの本は、どうしていつも前書きが『言い訳』から入るのですか?」

このブログの中の人は、ことさら熱心な氏の著作の読者というわけでもないのだけれど、確かにそうかもしれない、と思う。
氏はいささか不意を突かれたように苦笑して「ああ、鋭いなあ、これは初めて言われたけど、確かにそうですねえ」といった意の事をおっしゃっていたけれど。

で、今回の本はこれである。

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

(↑上の画像や書名はamazonにリンクしています)

この本の前書きに書かれた“言い訳”は、次のようなものだ。

これは私個人の知的関心に限定して書かれたユダヤ人論である。ユダヤについて中立的で正確な知識を得たいという人のために書かれたものではない。そのような書物を望まれる方は、この本はそのまま書棚に戻されて、より一般的な他の入門書を取られたほうが良いと思う。
 私が本書で論じたのは、「なぜユダヤ人は迫害されるのか」という問題である。

なるほど。

そもそも、日本人でユダヤについて「中立的で正確な知識」を持っている人というのは、どれくらいいるのだろう? 市井に暮らす日本人にとっては「ユダヤ人って何?」なんてことは、まったくもって分っちゃいない方が通常だ。
それでも、ユダヤ人という人たちが長い歴史の中で迫害されつづけていたらしいことは、知識として知っている。それは、「教えられるべきこと」とされているから。

そして、一部の人たちは、国際政治や経済・金融などの世界でおこる「困ったこと」の大半が「ユダヤ金融資本」とやらの陰謀によるものだと、かたくなに信じていたりする。

一部、と書いたけれど、それは「そういう言論を信じてはいけない」ということが、一般的には「政治的に正しいこと」とされているから、表立ってはそういう考えは表明しないけれど、心の奥底では、なんとなくそう思っているという人たちは、結構な数に上るのではないかと、個人的には感じているが。

「ユダヤ人迫害には根拠がない」(だから、ユダヤ人を迫害してはいけない)というのが「政治的に正しい言説」ではあるけれども、現実には「ユダヤ人迫害にはそれなりの理由がある」と考えて、あまりにも愚鈍で邪悪な蛮行が行われてきたという歴史は、厳として存在する。

そこで、著者はどうするか。

私には問題の次数を一つ繰り上げることしか思いつかない。今の場合、「問題の次数を一つ繰り上げる」というのは、「ユダヤ人迫害には理由がある」と思っている人間がいることは何らかの理由がある。その理由は何か、というふうに問いを書き換えることである。
この問いは、「人間が底知れず愚鈍で邪悪になることがある」のはどういう場合か、という問いに書き換えることができる。

かくして、著者の「私見」が開陳されていくことになるのだが、たとえ「中立でも公正でもない」としても、「第一章 ユダヤ人とは誰のことか」「第二章 日本人とユダヤ人」「第三章 反ユダヤ主義の生理と病理」までは、基本的な知識の乏しい我々日本人が「ユダヤ人問題」の枠組みを理解し整理するための手がかりとして、非常に分りやすくまとまっていると思う。

「日本人」といったとき、国籍も文化的伝統も言語も、「国民国家」のもとに統一された集団を思い浮かべてしまいがちな私たちにとって、「国民国家の国民が共同体に統合されている集団」ではない社会集団を「○○人」という形で想像することは難しい。
著者の言によれば、ユダヤ人を理解するためには、日本人の多くが持つ、この「固有の民族詩的奇習」から自由になる必要があるのだ。

簡単に言ってしまえば、ユダヤ人とは、人々が「ユダヤ人だ」と思っている人々のことである。そして「ユダヤ人」という記号を手に入れることで、初めてヨーロッパ社会が認識出来るようなものがある・・・というのが氏の議論の前提となっている。

・・・どうしましょうか? このペースでいったら、今回のエントリ、凄い長さになりますね。。。

第二章の日本人とユダヤ人、というのは、「日ユ同祖論」と呼ばれる、明治以降、日本に生まれた「ユダヤ人と日本人は同じ祖先をもっているのだ」とする説をめぐっての議論が展開する。
それは、当時すでに世界に流布されていた、「ユダヤ人は世界を征服しようとしている」という言説と、日本は特別な使命を帯びた神国である、という思想が奇妙な形で結合した「物語」なのだ(というのが著者の解釈)なのだけれど、説明しだすと長いので割愛。
興味ある人は読んでみてください。

第三章は、近代の反ユダヤ主義の成立をめぐって、フランス革命期に生まれた反ユダヤ主義を主な題材にしているのだが、ここで登場するのが、ドリュモンという人の書いた、『ユダヤ的フランス』という、当時のフランスの大ベストセラーである。

これ、ごくごく簡単に要約すると、つまり「フランス革命がおこってフランスが混乱し、本来の美しい伝統あるフランスが壊れていってしまっているのは、ユダヤ人のせいである」という保守派からなされた(妄想的)陰謀論、といった趣の本。

ドリュモンが恐れ、嫌悪していたのは、ユダヤ人ではなく、近代化=都市化の趨勢そのものであった。しかし、「時間の流れ」というようなものを敵に想定して戦うことは誰にも出来ない。敵は可視的・具体的な人間でなければならない。「誰知らぬものなき非行」の実行者であり、「そこからの解放が一般的自己解放と思われるよう」な邪悪な人々でなければならない。フランス革命以降の社会の変化から受益している人間でなければならない。

そして、こうした言説は、善意で無私無欲で頭脳明晰な人間の心にこそ、入り込んでしまうこともある。
それが、国家や社会の行く末を、真剣に考えた結果だったりすることもあるのだ。

では、そのような“愚行”をこの世からなくすことが出来るのかといえば、本書の終章はこんなタイトルになる。
「終わらない反ユダヤ主義」。
そう、終わらない(と、著者は考えている)のである。

フロイトの「引き受け手のいない殺意」理論や、著者が師とあがめる思想家、レヴィナスの、「人間は不正をなしたがゆえに有責であるのではない。人間は不正を先にすでに不正について有責なのである」といった思想を引きながら、「反ユダヤ主義」が生まれるメカニズムを解剖していく本章の議論を、簡潔にまとめることは、手に余る大きな問題なので、これまた「本書に当たってください」と逃げておく。
(ついでに言えば、フロイト精神分析って、「もう古いよね」「間違ってたよね」という議論がいっぱいあることも、今は措いておく)

感想めいたことを記しておけば、このテーマにおいて、「終わらない」という言葉は、重い。
それはつまり、反ユダヤ主義を生みだすものが、人間から邪悪さや愚かさがなくならないというのと同じ意味において、「終わらない」ということなのか。

社会や人間の進歩を安易に信じるわけではないけれど、私たちの社会は、「ユダヤ人を迫害されるには理由がある」という言説が「政治的に正しくないと断罪される」という程度には変化してきている。

それは「終わらせる」ための努力を続けてきた一つの「成果」ではあるのだけれど、しかし、そのような努力とはまた別の次元で「終わらない」構造が、人間の本性に根ざす形で存在するのではないか。

そう考えると、ちょっと暗澹とした気持ちにはなるのだけれど、しかし「終わらない」ことは、それはそれとして、個別具体的な場面で、思考し苦闘していくことというのは出来るわけで、むしろ僕等の日常というのも、ほとんどつまりそういうことなのではないか、とも思ったりするわけです。

ところで、先にも引用した

「時間の流れ」というようなものを敵に想定して戦うことは誰にも出来ない。敵は可視的・具体的な人間でなければならない。「誰知らぬものなき非行」の実行者であり、「そこからの解放が一般的自己解放と思われるよう」な邪悪な人々でなければならない

とまあ、こういうタイプの言論。
私たちの社会においても、とくにインターネットの一部界隈で、「対ユダヤ」とは別に、最近数多く跋扈しているような気がする。
その辺の問題との関係性についても、ちょっと思いが及んだのだけれど、これまた、あまりにも手に余る問題なので、「そういうことが思い浮かびましたよ」ということだけ記しておくことにする。

・・・にしてもアレですね。書き手の頭の中で、なんの「ケリ」もついていないことが明々白々な文章ですね、今日は。
まあ、たまにはこういうことを考えてみるのも、頭のストレッチとしては悪くない。ストレッチを読まされる人には、恐縮なのだけれど。