「究極の他者」と関わるために ―『日本仏教の可能性 ― 現代思想としての冒険 ―』末木文美士著

前回、新渡戸稲造の『武士道』を批判的にとらえた本を取り上げたわけだけれど、『武士道』という本の冒頭には、こんなことが書かれている。

約十年前、私はベルギーの法学大家故ド・ラブレー氏の歓待を受けその許(もと)で数日を過ごしたが、或る日の散歩の際、私どもの話題が宗教の問題に向いた。「あなたの奥にの学校には宗教教育はない、とおっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が質問した。「ありません」と私が答えるや否や、彼は打ち驚いて突然歩を停め、「宗教なし! どうして道徳教育を授けるのですか」と、繰り返し言ったその声を私は容易に忘れない。

そして、確かに日本では、欧州のような宗教教育は行われていないし、欧州のキリスト教のような「宗教にもとづく倫理意識」はないかもしれないけれども、「武士道」という伝統的な倫理が日本人を律しているのだ・・・ということを証明しようとしたのが、武士道という本だったということなのだろう。

日本人には宗教意識が希薄で云々、ということはよく言われることだけれど、でもその一方でお盆にお墓詣りを欠かさない、という人は案外多いし、葬式ということになれば、とりあえずお坊さんが来るものだろう、と、なんとなく思っている。
お寺や神社が好きという人も思いのほか多い。
「宗教は?」と聞かれると、「一応、仏教かなあ?」みたいな至極あいまいな答えをしちゃったりするのが、まあ、フツーの日本人という感じだろうか?

そんな「一応」なんて片づけられてしまいがちな仏教の可能性を考えてみましょう、という本を見かけたのでタイトル借り(@図書館)してみました。

日本仏教の可能性―現代思想としての冒険 (新潮文庫)

日本仏教の可能性―現代思想としての冒険 (新潮文庫)

本書の言葉を借りれば、著者はこんな立ち位置の人。

私はもともとお寺とは関係ない人間で、今でも出家しているわけでもなんでもありません。仏教の研究者はお寺の出身者が多いので、私のように純粋に外部にいる人間は珍しがられたりします。仏教界の事情に通じていないので、おかしな勘違いがあったり、お寺の方には失礼があったりするかもしれませんが、その点はお許しください。逆に少し外から仏教を見ていますので、内部にいると見えないようなところが見えてくる、そういう利点はあろうかと思います。

中身は、講演がもとになっているので、門外漢にも、まあ読みやすい本ではある。

論点はおもに以下の4つだ。
仏教の近代化とその問題点
・死者とどう関わるか
・神仏再考
・禅の可能性

著者の宗教観の前提には、宗教が単純な人間社会の倫理や道徳を逸脱した畏怖すべき恐ろしいものを扱うものである、という考え方がある。
人間の日常的な生活からは飛び出してしまうエネルギーを秘めつつ、それを人間の側に引き戻そうとする努力。
そこにこそ宗教がなにがしかの指針を持ち得る可能性がある。

そういった意味で、宗教が力を持つ一つの領域が、「死者とのかかわり方」という問題で、その意味で「葬式仏教」に価値を認めるというのは、興味深い考え方だ。

人間は原理的に、生きているうちに「死」を体験することはできない。
これは、哲学者のヴィットゲンシュタインが言っていることで、カントなんかは「死後の霊魂は認めても否定しても矛盾に陥るということで、純粋理性ではそれは論じられない」と言ったそうだけれど、とにかく、死者というのは、生きている人間にとっては、決して本当の意味では理解できない存在であるわけだ。
そして、身近な人が突然「死者」になるということは、だれにもが体験する出来事でもある。

この辺の議論では、内田樹氏によるレヴィナスの解釈なども引用されて、仏教の思想と西洋哲学との接点が垣間見えるのが、興味深い。

で、そういった前提を置いたうえで、著者はこう語る。

例えば親しい身内の人が亡くなったとき、その死者との関係がなくなるわけではない。生きている人間は死者との関係を持ち続けていかなければならない。
 そうだとすると、自分の死ということで死を問題にし、あるいは死後がどうかという形で問題にするから、我々にわからない問題になってしまうのであって、そうではなくて我々が何らかの形でかかわらざるを得ない死者の問題として考え直すことによって、別のとらえ方ができるのではないかというのが最近私が考えていることです。

この視点に立った時、死者への儀礼をつかさどり、死者の霊魂を慰め、生きている人間が死者を思うための場を提供し、生の意味を考える思想としての宗教の役割が出てくる・・・。
このブログの中の人が理解した範囲で言えば、著者の主張は、こんな感じにまとめられるだろうか。

実は仏教の輪廻転生の考え方と、日本人の伝統的な死生観にはいろいろと齟齬があったりするらしいのだが(たとえば、仏教では死者の魂は49日間ただよったあと輪廻転生することになっている。だから49日に法要を行うわけだが、その後はつまり「形を変えて生まれ変わる(但、悟りを開いて輪廻から解脱していない場合)」わけだから、49日が終わった後にも「法事」を行うのは、理屈に合わない話になるそうだ)、そういった問題も含めて、「究極の他者」ともいうべき死者と、我々がどうかかわっていくのか。
その指針を示すのが宗教の役割であるし、また、「究極の他者」とのかかわり方は、また、広い意味での「他者」との了解の仕方にかかわる問題でもあろう。

勿論、著者は、死者に「お布施の金額」で階級をつける現在の戒名制度に象徴的にみられるような、単なる儀礼に堕した現在の葬式仏教をそのままで良しとするわけではない。
だが、日本における宗教の堕落を象徴する言葉ともいえる「葬式仏教」という言葉に、こういう切り口から新しい視点を吹き込むというのは、極めて興味深いと思う。

死者の問題というのは、そこに「戦没者」という人たちを導入することで、靖国神社の問題なんかにも広がってくる。
この話は、はなはだ複雑かつ微妙なので、ここではただ、本書ではこの問題について、、「国のために戦った個人を神として神社に祀る」というのは、明治以降、靖国神社が初めて取り組んだことであって、必ずしも日本の伝統というわけでもなければ、日本人の伝統的な死生観ときっちりした整合性を持っているわけでもない、という立場に立って論じられていることを記しておこう。

他にも、日本の仏教は、明治時代に僧侶の肉食妻帯が公式に認められたことによって大きく変質した、とか
明治維新神仏分離されるまでは、日本における神道仏教は渾然一体となっていて、必ずしも神道こそが日本の文化の古層をなしていると言い切ることはできないとか、
一神教に比べて多神教は寛容だというけれど、日本におけるキリスト教弾圧の歴史を考えるとき、寛容とはなんだろう、とか、
興味深い論点の多い本である。

そして、なにより、ああ、仏教徒なのに(一応、実家の葬式や法事はすべて仏式)、仏教のことって知らないなあ、と思わされる。

本書によれば、積極的に社会的な発言したり、活動したりする仏教のことを「エンゲイジド・ブッティズム」というのだそうだ。
本書によれば、日本語訳が必ずしも定着しておらず、「社会参加仏教」などと訳されているそうだが、著者もいうとおり、訳が定着していないということは、日本の仏教界が、まだまだ、そういう活動になじんでいないということだろう。
台湾では「人間仏教」という呼び方で、ボランティアなどの社会活動に積極的にかかわっているそうだが。

関わるのがよいことなのか、という論点はとりあえず措くとして、なぜ日本の仏教界から、今一つそういう動きが盛り上がらない(全くないわけではないが)のか、本当に仏教はもはや形式的で儀礼的で時代遅れなものなのか、そんなことを考えるのに、よい本でした。
そしてもちろん、著者はけっして時代遅れとは考えていない。
それはなぜなのか?ということに興味があるかたは、お読みいただければ、と思うわけで。

まあ、そんな理屈は考えなくても、特に、ある程度の年齢になると、お寺って不思議と癒される場所ですけどね。
で、「そうだ 京都 行こう」なんてCMに誘われて、京都のお寺で心癒されてみるのもいいけれど、そこから一歩先に進んでみるのも、たまにはいいんじゃないか、なあんて、京都在住経験があるからこそ、このブログの中の人は考えてみたりするわけです。