最後は逃げるが勝ち? ―『中国人のビジネス・ルール 兵法三十六計』梁増美 著 

なんだか尖閣諸島の領有権をめぐって、中国での暴動が大変なことになっているらしい。

ま、この100年くらい(いや、有史以来3000年近く?)あの国は大変なことが続いているんじゃないかという話もあるし、あの程度の暴動は、政府の意向が変われば、しれっと「なかったこと」になっちゃうのがまた、中国という国の凄いところだという説もあるけれど、とりあえず、日系企業への放火だの略奪だの、現代日本人の感覚からすれば、ことは穏やかではない。

このブログの中の人は、この問題について何かを語れるほど中国についても領土問題についても、知識も経験もないけれど、ただ、とにかく「中国」および「中国人」の思考法やら行動様式というのが、日本人とはかなり隔たっているよな、ということは容易に感じられる。

で、そんな中国人の思考や行動の枠組みを理解するヒントが、ここにあるのですよ、というのがこの本のウリなわけだ。

中国人のビジネス・ルール 兵法三十六計

中国人のビジネス・ルール 兵法三十六計

(↑上の画像や書名はamazonにリンクしています)
兵法といえば、『孫子の兵法』というのが有名だが、三十六計とは「孫子に代表される数々の兵法が長い年月を経て大衆化し、中国人がほとんど無意識に使うほど深く中華社会に定着した形」なんだそうな。

で、本書の第一章では「『兵法』がわかれば中国人がわかる」と題して、中国における兵法の意義や、それがいかに現代のビジネスにも影響を与えているかを簡略に説明している。
ここで興味を引かれたのは、兵法と儒教という、まったく違う考え方が中国人の中で両立する理由を、「身内と外部」という対立項に対応させて論じているところだ。

儒教といえば、礼を重んじ、長上を敬い、徳によって国を治めることを理想とするわけだけれど、まあ、今の中国にそういう思想が実践されていると思う日本人は少なかろう。
一方で、家族や友人を大切にするのもまた中国人で、一度親しくなれば、きわめて義理堅く付き合ってくれる、という話も聞く。

著者によれば、これは、「身内の人間(中国語で『自己人』)」には儒教で接し、「外部の人間(『外人』)」には兵法で接するという中国人の行動原理によるものだという。

この「自己人」の世界で働く行動原理は「儒教」。そこには高い倫理観があり、人をだますことは倫理的に排除される。<中略>
儒教で、高い倫理観が国家全体に浸透していた理想的な時代とされているのは、周王朝の時代だ。
しかしその後の春秋戦後時代以降、戦乱が続く。このころから、自己人の領域とは別の領域が出現する。それが「外人」の世界。<中略>
この「外人」の世界での行動原理が「兵法」で展開される数々の権謀術となる。

なるほどねえ。
ま、話を簡略化しすぎている気はしないでもないけれど、でも説得力はある。そして、日本人は「外人」なのだろうなということは、容易に察せられる。

もう一つ、興味深いのは、必ずしも儒教と兵法は必ずしも対立するだけの思想ではないという視点だ。

よく知られていることだが、兵法というのは「戦わずして勝つこと」、さらにいえば「戦わないこと」を理想とする哲学でもある。戦いというのは、あくまで「最後の手段」であって、目的は国家を守り安定させることにある。そして戦争というのは国家を滅亡させかねないものであるからこそ、戦うとなれば徹底した計略が必要になる。

一方の儒教というのは「修身・斉家・治国・平天下」、すなわち個人の身を修めることが、家を整え、国を治め、天下泰平をもたらすという考え方に立つ。
つまり、儒教と兵法の目的は同じところに行き着く。
その「手段」が実践されるとき、大分違った様相を見せてくることが多いわけだけれども、一方で「儒教的な価値を守るために戦うことが必要とされている=儒教的な価値観であるメンツあるいは名誉を保全するために、戦うことは当然であるという考え方も中国人は持つ」といった具合に、両者の結合がした地点に、新たな行動権利を生み出す理屈が生じることもあるらしい。

そんな兵法だが、やはり苛烈な状況だからこそ必要とされるもののようで、その将来について、著者はこんなことも語っている。

兵法に対しては、地域や時代、あるいは所得のレベルなどによって、異なる見方が存在する。たとえば、海外華人と大陸の中国人とでは違う。
筆者の限られた経験からみると、香港やシンガポール華人の多くは、基本的に兵法を知っていても外国人に対して積極的に活用しようとは思わないだろう。法治主義が個人利益保護機能を果たし、高い所得水準が法の遵守を実現している場合、兵法という手段で保身する必要性がしだいに低下してくるからだ。<中略>
30年間に及ぶ中国大陸の国内紛争や文化の熾烈な権力闘争を身にしみて経験しなかった海外華人は、兵法よりも儒教を優先しているのだろう。本来的な中国人の志向である。

だからこそ、いずれは「兵法が使われる機会が少なくなっていくのかもしれない」と著者は予言する。だが、まあ、大陸中国でそういう時代が来るのは、まだまだ先という気はするわけだが。

前置きが長くなったが、では「三十六計」とはどんなものか?
本書の第二章では、当然ながらかなりの紙幅をさいて説明しているのだが(そういう本なので)、これが、こういってしまうと何だが、実はそれほど思想的に深みのあるものではない。まあ、大衆化された兵法だから、言ってみれば、「故事成語」とか「ことわざ」のようなものだ。

たとえばこんな感じ。
第一計 瞞天過海 捕らわれの身になった時、天を欺いて逃亡するという意味。世間をだましてうまく逃げること。
第二計 囲魏救趙 真正面から攻撃してはいけない、守備の手薄なところを探して攻撃せよという意味。
第三計 借刀殺人 人の刀を借りて、人を殺すという意味。自分自身では手を下さないということ。
・・・。
(ちなみに、三十六計すべてを知りたい方はwikipediaで検索すれば載ってますです、はい)

本書では、それぞれに解説と、「実際にその計を利用されたエピソード」として、いろいろな実例が挙げられているのだが、微妙にエピソードと「計」がかみ合っていないような印象もなくはない。というか「計」がかなり「アバウト」なせいもあって、かなり幅広いエピソードが無理やり当てはめられているという感じというか。

三十六計の内訳は順に6つずつ「勝戦計=自軍が有利なときの戦い方」「敵戦計=敵と自軍の兵力が同等で対峙しているときの戦い方」「攻戦計=敵をいっせいに攻めるときの戦い方」「混戦計=敵と乱戦しているときの戦い方」「併戦計=敵の力を利用して勢力を拡大する戦い方」「敗戦計=不利な状況に置かれたときの戦い方」に分類されている。

「敗戦計」のなかには「美人計−色仕掛けで敵をたらしこむ」なんていうのも入っているのが、また、いかにも、という感じもする。
現代語でいえば「ハニー・トラップ」というところか。

第三章(終章)では、三十六計を身にしみこませている中国人への「対処法」がまとめられている。
ま、「あらかじめ警戒を忘れない」とか「自分で情報を収集する」とか「相手をすぐに信用しない」というところから始まって、究極的には「自己人」領域に入れるように信頼関係をつくる、といったところで、それほどの「特効薬」はない、という印象だ。

となれば、方法は地道な交流と理解の積み重ねしかなさそうだ。
一方で

中国語を知っていて、しかも三十六計がわかっている外国人などは、最も警戒されることになる。
中国に進出したある日本企業の経営者が、部屋で三十六計の本を読んでいたら、そこに中国人の取引相手が入ってきた。
その相手は本の表紙を見ただけで、一瞬、顔をこわばらせた。そして「私があなたをだまそうとしていると思っているのか」と詰問してきたという

なんてエピソードもあるそうなので、また話は複雑そうだが。

ところで、「三十六計逃げるに如かず」という言い回しがある。

本書によれば、この「三十六計」とはすなわち兵法三十六計のことだとかいてある。
だが一方で、wikipediaの解説では
「『三十六計逃げるに如かず』という故事が有名だが、この故事自体は兵法三十六計とは関係ない。」
魏晋南北朝時代の宋の将軍檀道済は、『三十六策、走るが是れ上計なり』(『南斉書』王敬則伝)という故事で知られるが、檀道済の三十六策の具体的な内容は不明であり、『兵法三十六計』と直接の関わりはない。」
となっている。

どちらが正解なんですかね?

ま、三十六計の最後は
第三十六計 走為上 以上に述べてきた計略を用いても勝てないときは、逃げたほうがいい。
となっているくらいですから、いずれにしろ、こりゃかなわんと思ったら逃げるのが最上の策のようではあるけれど。