あの涙の向こうにあったもの ― 『修羅場の経営責任』 国広正 著

修羅場の経営責任―今、明かされる「山一・長銀破綻」の真実 (文春新書)

修羅場の経営責任―今、明かされる「山一・長銀破綻」の真実 (文春新書)

「私らがみんな悪いんです! 社員は悪くありません! どうか、社員を応援してやってください!」

こう絶叫し、泣き崩れたオジサン(失礼)の映像を記憶しているかどうか、というのは、
世代を見分ける一つの指標であると同時に、その人の社会人としての心の持ちようにも、なんらかの影響を与えているような気がする。

泣き崩れたのは、当時の、そして最後の山一證券社長、野澤正平氏
1997年11月24日、同社が自主廃業を発表した記者会見でのことである。

今思ってもあれは、なかなかに衝撃的な映像だったし、象徴的な事件だった。

なにしろ、山一證券は日本の「四大証券」の一角だったのである。

そのころ、すでに北海道拓殖銀行や三洋証券が破綻していたとはいえ、一般の感覚としては「格が違う」と思われていた。
しかも、自主廃業という聞きなれない響き。
すでにバブル崩壊という言葉は広まっていたけれど、それが単なる経済現象ではなくて、
「有名大企業が未来永劫、安泰とは限らない」という、今考えれば当たり前の、
でも、「終身雇用という安全神話」を信じ込んでいた当時の日本人には、あまりに衝撃的な事実を突きつけた場面だった。
なんだか、大仰な言い回しになってしまったが。

当時の山一證券は、外部の弁護士を交えて「社内調査委員会」を設置し、同社が自主廃業にいたった理由を明らかにする社内報告書を発表している。
このとき、委員を務めた弁護士が書いたのが、今回とりあげた、この本、

修羅場の経営責任―今、明かされる「山一・長銀破綻」の真実 (文春新書)

である。

著者は、今では企業の危機管理を専門とする弁護士だが、もともとは「町弁=(一般市民を依頼者とする町の弁護士)」として雑多な民事事件や刑事事件を扱っていたという。
大好きな仕事分野は「民事介入暴力(民暴)」、暴力団や総会屋などと渡り合う血の気の多い仕事だったそうな。

そんな著者と山一證券とのかかわりは、山一の「総会屋絶縁チーム」に誘われたことに始まる。

某漫才師の引退騒動ではないけれど、今でこそ日本社会で暴力団とのかかわりが明らかになれば「まっとうな仕事」には差し支えようが、
かつての日本企業は、そういう「反社会勢力」ともギリギリの関係の上になりたっていたものである。
1980年代までは、上場企業の総務担当役員といえば、
そういった関係において「墓場まで持っていかなければいけない秘密」を抱えた人が山ほどいたはずだ。

著者も「駅のホームでは線路側に立たない」といった安全措置(!)を抱えながら、
「スリリングかつエキサイティングな仕事をしていた」そうな。

だが、山一が自主廃業を決めたことで、この仕事がなくなってしまう。

そんな著者に、山一證券の調査委員会へのお誘いの電話が入り、かくして著者の「企業の危機管理を専門とする弁護士」としての
第一歩が始まる。


山一が自主廃業することになった直接の原因は「飛ばし」による2000億を超える「簿外債務」の存在である。

たとえば、山一が取引先に50億円の金融商品を売ったとする。ところが、これが値下がりによって35億円の価値しかなくなってしまった。
仕方が無いので、決算期直前に、これをいったんB社が51億円で引き取り、決算期が終わったらA社が52億円で買い取るように手はずする。
そのうち株価も戻るだろう、と思ってこんなことを続けているうちに、A社もB社も耐え切れなくなって、
最後は山一がつくったペーパーカンパニーが引き取って・・・という具合である。
この会社間の取引が「飛ばし」であり、山一側が買い取った価格と、時価との差額が「簿外債務」となる。

ちなみに、野澤社長は、自分が社長になるまでこの「飛ばし」や「簿外債務」の実態は知らなかった。
実は1991年ごろから、こうした債務は存在していて、しかも「飛ばし」による損失隠しは当時の大蔵省から示唆されて行ったのではないか、という話もあるのだが、いずれにしろ、社内ではごくごく一部の幹部だけが認識していたのである。
98年8月に社長となって初めて、会社の内情をしった野澤氏は、必死に山一再建に走り回るが、11月には力尽きてしまったのである。

本書では、委員会が作成した「調査報告書」の内容を引きながら、山一で何があったのかを簡単に振り返ると共に、「調査報告書」を作る過程において、何があったのかを記していく。
(なお、報告書は国広氏の事務所のホームページから、現在でもダウンロードできる。http://www2.kunihiro-law.com/hitusya/index.html

そもそも「報告書」自体が、たとえば「法的につくらなければならない」といった性質のものではなく、社員の声に押される形で野澤社長が作成することを決断、嘉本氏という常務の下に委員会が作られた、という経緯がある。

この嘉本氏という人物、「真実を明らかにすること」こそが最後の経営責任であるという認識の下、果敢に働くわけだが、当然、「山一自身が調査する必要があるのか」などという役員もたくさんでてくる。

そんな中で、委員会は、どのように調査に取り組み、そこで何が明らかになったのか・・・は、本書を読んでいただこう。


さて、本書には題名にあるとおり、山一とならんで、バブル崩壊を象徴する大型案件、日本長期信用銀行長銀)に関する話も大きな柱となっている。

著者は粉飾容疑で東京地検特捜部に逮捕された、須田正己・元副頭取の弁護人を務めているのだ。

このとき、須田氏をはじめ3人の元頭取・副頭取が逮捕されたのだが、このときの容疑の中核は、簡単に言えば「98年3月期決算において、不良債権として損失処理した金額が少なすぎた。これは粉飾決算である」というもの。
粉飾といっても、架空売上げを計上した、とか、そういう類の話ではない。

これ、説明するとややこしくなるのだが、焦げ付いた不良債権をどのように評価するか(=損失として計上するかどうか)というのは、色々な考え方が成り立ちうる。
そして、98年当時は、銀行の損失処理の方法が変更される過渡期でもあった。

本書によれば、この事件において、東京地検の検事は取り調べの場で「国策捜査」という言葉を口にし、かなり強引な取調べを推し進めたらしい。
当時、成立した金融再生法では、銀行経営者の法的責任を問うことになっていた。当然、政治家は、新しい法律の威力をみせたい。
そして、「長銀が破綻した以上、なにか法律違反を犯しているに違いない」という世論のプレッシャーがあったことが、国策捜査を進めさせる圧力になった、というのが本書の見立てである。

その是非はともかくとして、結局、須田氏ら長銀からの逮捕者は、一審・二審と有罪になったものの、最高裁で逆転無罪となった。
そこに至るまでの戦いの軌跡が、いわば、本書の「もう一つの柱」である。


さて、ここまで読んでみて明らかなのだが、この本、実は一般的な「経営責任」とは何ぞや、といった疑問に答えるものではない。
(カバーの見返しには「真の経営責任とは」と、書いてあるけれど)

そもそも、事例があまりにも「修羅場」過ぎるし、実際のところ「弁護士が見た山一・長銀破綻」の現場がつづられている部分がほとんどだ。
それだけでもノンフィクションとしては充分に面白いが。

最後に2つの事件を振り返った上での「経営責任論」が8ページほど綴られているが、もちろん、それだけで論じられるテーマでもないし。
そもそも、会社を破綻するような状態にもっていかないことこそが、一番の経営責任じゃないのか、という話も成り立つが、そういってしまうと「山一も長銀も、トップが経営責任を果たせませんでした」で終わってしまうしな。

ただ一つ、最後の部分でちょっと面白い話が。

山一證券による「社内調査委員会による検証」の実績は、その後の企業不祥事などにおいて、第三者委員会を設置するというやり方に、実務的な影響を及ぼしたそうな。

そして、著者はこんなことを記している。
「ここで強調しておくべきことがある。それは、第三者委員会の目的は『失敗の検証』を『将来の役に立てる』ことにあり、過去の個人の法的責任追及を主眼とするものではないという点である」。

これ、失敗学の権威にして、福島原発の事故調査委員会の委員長になった畑村洋太郎先生の言ってることと似ているなあ・・・と思ったら、数ページ後に、まさにその話が書いてあったのでありました。

組織による失敗の原因を、いかに冷静に、個人に罪を擦り付けることなく解明して「次にいかせる」かどうか。
どうやら、これは日本の組織が抱える大きな課題、らしい。そんな気がしました。

というわけで、この本。経営書というより、ビジネス・ノンフィクション、ですな。
とくに「あの記者会見」に、何らかの記憶がある人は、読めばきっと、何がしかの感慨がわくはずである。



以下、まったくの余談なのだが、この本を読んで思い出したことが一つ。

バブル経済華やかななりし頃、当時のヒットチャートを席巻していた松任谷由美が、こんなことを語ったことがあるらしい。
曰く「私は今の日本の豊かさの象徴。私の歌が売れなくなるとしたら、戦争が起こるとか、大きな銀行がバンバンつぶれるとか、そういう大きな出来事があったとき」・・・。

そして予言は現実となり、バブルと寄り添った歌姫の曲は、その後、けっして大ヒットすることはありませんでしたとさ。

あてるなよ、そんな予言。