本物の「金儲けの専門家」が持つ知性−『日本人はなぜ株で損するのか?』藤原敬之著

正直、題名の付け方が、いまひとつ。
それが、この本を読んだとき、最初に浮かんだ感想である。

このタイトルは、なんだか「株で簡単に儲ける方法」をアドバイスすると称した駄本と区別がつかないが、内容はもう一段も二段も深い。
一流の人というのは、やはり、「金儲け」だけでなく、多面的に一流なのである。
メディアなどでフレームアップされるのは、ある一面に過ぎないし、必ずしも、本当に一流の人がメディアによく登場するとは限らない。

さて。
「ファンド・マネジャー」という言葉を聞いて、どんな人物像を思い浮かべるだろう?
カネの亡者・・・なんて答える人もいるだろうか?
あるいはウォール街の「勝ち組」で、リーマンショックの原因を作った人たちで、「自分たちさえ儲かれば、後はどうでもいい」と考えている人たち、と考えている人もいるかもしれない。

本書は、華やかな経歴を持つファンドマネジャーが、京都大学で『株式運用 アクティブ・ファンド・マネージメントとは何か』と題して行った講義をまとめたものである。

日本人はなぜ株で損するのか? (文春新書)

日本人はなぜ株で損するのか? (文春新書)

著者は、大学では全く勉強せず、映画ばかり見ていたという。
著者の言葉を借りれば、「今と違って日本が右肩上がりのよい時代で大学そのものがテーマパークみたいな娯楽施設だった」のだ。
卒業後は、映画監督かテレビのディレクターになろうと思ったものの、それは厳しいことが分かって、どこか楽で給料の良いところはないかと探した結果、見つけたのが「農林中央金庫農林中金、農中)」であった。
全国の農協が預金として資金を運用する組織だ。
あくまで組合員の相互扶助を目的とし、営利目的ではないという建前があるため、その資金は一般的な企業への融資ではなく、国債での運用が中心となる。
その金額は数十兆円。それを金利動向をにらみながら運用する。
つまり、世界最大のヘッジファンドでもあったのだ。

そこで、「天才」と呼ばれた金融マン、岡本恭彦氏の薫陶を受け、ファンドマネージャーとして頭角を現していく。
著者はこの岡本氏から「情報のやりとりというのはインサイダー情報を交換することじゃないんだぞ。互いの『切り口』を交換することなんだぞ」という言葉を教わり、それが、その後の相場人生を支えてきたそうだ。
なかなかに深い言葉だ。
インサイダー取引の容疑」でつかまって、「お金を稼ぐって、そんなに悪いことですか?」とのたまった、どこぞのファンド・マネジャーとの格の違いを感じる。
(まあ、あの人は、ファンド・マネジャーとしては、「とくに優秀なわけではなかった」という説もあるけれど)。

その後、クレディスミスを含む複数の金融機関を渡り歩き、「皆さんのお父さんたちの平均的な年収とおそらく2桁違う報酬をもらってきた」という人生のなかで、株式とは何か、投資とはなにかを考えきた、その中身を若い人に講じましょう、というのがこの本なのである。

話はまず、株式運用のパッシブ運用、アクティブ運用とは何か、投資する銘柄を選ぶ手法のトップダウン(マクロな経済環境の分析から、投資すべき銘柄を選ぶ)と、ボトム・アップ(個々の会社の分析から、投資すべき銘柄を選択する。いわゆる「アナリスト」と呼ばれる、企業分析のプロは、このための情報を集めている)の違い、といった基本的な知識の説明から入っていく。

そして、第3章の冒頭は、こんな文章で始まっている。

 ここで、皆さんに質問をしてみたいと思います。「人間は生まれてから死ぬまで、何をしているか五字で示せ」。この問題が大学院の入試レベルで出題されたとして・・・。

京大の教室では手が挙がらなかったそうだが、どんな答えが思いつくだろうか?
著者の答えは「情報の処理」。
「情報整理のコツは細分化と集中化」という著者は、毎朝30分かけて、日経新聞日経産業新聞などを切り抜き、大分類で23、その中で分かれている小分類を全部あわせると49の項目に整理するそうだ。
これが30分で出来てしまう、というのも凄いけれど。。。

そのほか、正方形を9等分(縦横3列ずつ正方形が並んだ形)にした罫線の印刷された、独自の用紙を使ったメモの取り方など、著者が実戦している情報処理術を説明した後、「運用のプロ」からみた「株式とは何か」についての講義が続く。

「株価とは運動である」「株価が運動であれば、分解が可能である」という命題を基にした株式論、そして、物事を2項対立で見るという考え方はきわめて興味深い。

そこで『二項対立』が潜んでいるのだという認識を新たに持ってみるのです。
 すると経済や市場から本質が浮かび上がってきたりします。(中略)何もかもを割り切ることは我々が生きてゆく世界では不可能です。どんな世界にも正解はありません。しかし正解に近づくことは可能です。二項対立という命題を常に持つことでそれは可能になります。

と、ここまででも、単なる「金儲けの手段」をとくのではない、深い認識が示されているのだが、個人的には、最後の2章がまた、ちょっと視点が移動していて、考えさせられることが多かった。

著者のこれまでの人生で出会った人の中で、「この人は間違いなく投資の成功者だと呼べる人はひとりだけ」だという。
なぜそんなことになるのか。
そう考える中で、著者は「日本人はそもそも投資に向いていない」「日本人は日本人であるから投資が下手なのだ」という、ある意味で、きわめてオソロシイ結論に達する。

どういうことか?

著者の見方では、日本人は「今」に最高の価値を置くのだという。
だから、目の前ですぐに引き出せる銀行預金が大好き。
「100万円預けてくれたら、5年後に200万にして返します」という話にはなかなか乗らないが、「元本保証で今どき年10%の高利回り。配当は半年後!」といった、割合短期間で成果が見えるような宣伝文句を使った金融詐欺には、すぐに引っかかるという。
この手の詐欺のポイントは、実際に一回目は本当に配当を行うことにある。
「ほら、今目の前にお金が入ってきた。だから、次回も、次々回もきちんと払われるに違いない」と思い込んでしまう人が後を絶たないのだという。
(欧米では、この手の詐欺はめったにおきないらしい)。

この違いはどこから来るのか。

欧米人は、キリスト教ユダヤ教を中心とする唯一絶対の一神教の環境で生まれ育ってきています。
(中略)
西欧社会に生きる人々は、唯一絶対の神の存在する世界が、現実の自分たちの生きる世界とは違う世界にあるというビジョンを子供の頃から持っています。
(中略)
「今の自分とは違う理想の自分、今とは違う理想の将来」という二元論的な考え方がそこにあります。そのビジョンのもとで、「価値」は今ではなく、「理想の自分」や「将来」におかれるわけです。

投資とは、つまり将来得る果実のために、現在手元にあるお金を運用することだから、「理想の未来」のビジョンがなければ思い切ることが出来ないのである。

では、日本人はなぜ「今が大事」なのか。著者の理解によれば、こういうことだ。

 日本人の「今が大事」の大きな理由は、今の自分が住む日本という世界が永遠にそのまま続くと考えているからだと思います。国を奪われたり追われたりしたことがないわけです。だから、じっとしていても何とかなると考えてしまう。
(中略)
 しかし、日本でこれから、それで良いのかは疑問です。

著者は、農林中金をやめ、投資顧問会社で働き始めた頃、海外で投資家に出資してもらうためのプレゼンで連戦連破を喫していた時期があったそうだ。
そこで、自分の「考え」がなかったことが、最大の問題だと気づいたという。

それで、さまざまな勉強を本格的にしていったのです。今までは土台の無い表面的な知識に終始していたのではないか、何かしらしっかりした基礎をつくらないと駄目だとの思いが強くなったのです。
(中略)
 兎に角、様々な書物を乱読しました。古今東西の様々な書物を片っ端から乱読するやり方です。しかし乱読してゆくうちに方向性が整理され学問と実務の結びつきが出てくるようになりました。

こう語るだけあって、随所にでてくる著者の知識はハンパない。
最終章は、海外相手にビジネスする中で、「日本人とは何か」を考えるようになった著者の日本人論にあてられているのだが、そこに引用されるのは、和辻哲朗、小林秀雄折口信夫網野善彦丸山真男といった早々たるビッグネーム。

そして、スイスが金融立国で、世界中の政治経済を動かす資金を集めているが故に戦争に巻き込まれずにすんだ一方で、現在の日本が「結局、政治も経済も変わらない」と海外から見られており、「ジャパン・パッシング」が起こっている現状を憂いている。

本書の最後は、学生たちへのアドバイスとして、こんなことが書かれている。
1)ゲームは止めましょう。
どんな優れたものでも、ゲームは単なる刺激と瞬間の反応による興奮でしかない。その時間を読書と音楽と映画に使ってほしい。ゲームは人間がいかにすばらしい、そしておろかな存在かを教えはくれない。

2)学問は思考の道楽
多額の報酬をもらってきたから、女性道楽以外はいろんな道楽をしてきたが、学問ほどの道楽はない。

3)不条理への対処
社会には様々な不条理がある。そこで折れないようにするためには、自分の周りの人間全てを「他者」だと認識することだ。ビジネスでいえば、上司も同僚もすべて「顧客」と考えること。
ある意味でこれは、自分を捨てることにつながる。スムーズに事故目的を達するためには、一度自己を捨てるのが近道であり、他者を主体に考えることで、目的達成のルートが見える。

なるほど。
どれも深いなあ、と思うけれど、1)は、どうなんだろうか?
前回取り上げた『プルーストとイカ』の中に、「文字文化に反対したソクラテス」の話が出てきたけれど、それと似たようなことが実は起こっていたりして。
コンピュータゲームを批判するのは、旧世代が新しいものを否定しているということではないのか?
コンピュータゲームには、本当に刺激と興奮でしかないのか?
いや、むしろ『ゲームネイティブ』(という言葉は無いのかもしれないけれど、つまり、生まれたときからコンピュータゲームがあることが自然だった世代のことです)の世代には、旧世代には思いも付かない、新しい何かを生み出すのか?
必ずしも答えは見えてないように思える。

まあ、この辺は本書の主題ではないのだけれど。

この本、全体に広く浅く語っている感もあり、個々のテーマはもっと厳密に掘り下げたらより面白そうだが、そもそもが、専門的な学問ではなくて、学生に「いろいろなことを考えさせる」という目的の講義が元になっているのだろうから、そこまで求めるのは酷というものだろう。
また、そんなハイレベルな本では、気軽に読むわけに行かないし(笑)

ここに取り上げた以外にも、「ウォール街で最も有名な日本人は、2008年に亡くなった京大の伊藤清名誉教授。なぜなら、教授が考え出した確率微分方程式が、デリィバティブ(金融派生商品)などを生み出した金融工学の元となったから」など、面白いネタが随所に埋まっていたりするのだが、書き出すときりが無さそうなので止めておきます。

にしても、以前とりあげた『武器としての決断思考』の瀧本哲史氏といい、京大が外部から呼んでくる講師の先生は、なかなかに興味深い人が多いみたいである。