社会のあり方と会社のあり方について ― 『日本の経営〈新訳版〉』ジェームズ・C・アベグレン著

今となっては、ほとんど冗談のような話なのだけれど、かつて「世界に冠たる日本の企業の強さの源泉は、終身雇用・年功序列・企業内労働組合の三本柱だ!」 などと言われた時代があった。

このブログの中の人も、中学の社会科の時代に、そんなようなことを習った覚えがある。

で、日本の企業は社員を大切にし、一生面倒をみてくれるのに対し、アメリカの会社は業績が悪くなるとすぐ社員の首を斬ってしまう。
そんな風だから、社員は会社のために必死に働こうとせず、いまやアメリカの車は日本車よりも性能が悪くて全然売れなくなってしまった。
それに対して、いまや日本の企業は世界中に素晴らしい製品を輸出して高く評価されているのです。
さあ、皆さん、一生懸命勉強して、いい高校に進んで、いい大学はいって、いい会社にいって、立派なサラリーマンになって、会社のために働いて、定年まで勤め上げましょう。
そうすれば安定したいい暮らしが保障されるのですよ・・・と、まさか公立の中学の先生が、そこまでのことは口にしなかったけれど、まあ、みんな漠然とそんな風に考えていたわけである。
失われた20年が来る前の、古きよき時代の昔話。

では、こういった見方のルーツはどこにあるのか?

それは、この本である、というのが定説になっている。

日本の経営 〔新訳版〕

日本の経営 〔新訳版〕

「日本とは、外から見ると、これこれこういう、変わった国である」というのを外国人に指摘されて、ははぁ、そうなのかと受け入れる・・・という構図は、色々な分野で見られるけれど、この「終身雇用が日本企業の強さの源泉」という見方も、それの一類型だったのだ。

この本のカバー見返しには「本文中のLifetime Committmentの訳語として、『終身雇用』という言葉が初めて用いられたことでも知られている」と書かれている。

著者のアベグレンは、1926年生まれ。
海兵隊で日本語を学んで第2次大戦に従軍。Wikipedhiaによれば、ガダルカナルや硫黄島で闘ったこともあるらしい。
「敵」である日本について知るために、軍で日本語を学んだ人たちですね。
本土へ初来日したのは戦後の米国戦略爆撃調査団の一員として広島に来たとき、だったそうな。

で、55年に日本企業の経営を調査するために再来日し、その結果をまとめたのが本書。
その後は、コンサルティング業界に入り、ボストン・コンサルティングの初代日本支社長(ということは、堀紘一のセンパイということですね)をやったり、上智大の教授になったりして、日本国籍も取得している。2007年没。

本書は、19の大企業と34の小企業にたいして、調査票によるアンケートと訪問による聞き取りをした結果をもとにまとめられたものだ。
業種は全て製造業。

1955年といえば、まだ、いわゆる高度成長は始まっていないけれど、日本経済がすでに着実な復興をとげ始めた時期であろう。

第1章では、この調査が行われた背景として、次のような問題意識があげられている。

日本はとくに注目に値する。工業化について、欧米型でもソ連型でもない第三の道を歩んでいるのは日本だけだからだ。欧米以外の国で唯一、工業国とも呼びうるまでになっており、産業が発達しているものの、あきらかにアジア的な性格を一貫した形で維持している。<中略>
 欧米以外の国として唯一、工業化を進めて来た日本の実績は、ほかのアジア諸国の工業化の過程に関心を持つものにとって、貴重な研究対象になっている。

ソ連型でもない、というのがいかにも50年代、という感じである。
下手すりゃ今の大学生なんか「ソ連ってなんですか?」と言い出しかねないわけだが、この本が書かれた当時というのは、なにしろ東西冷戦華やかなりしころだし、北朝鮮のほうが韓国よりも経済力があったであろう時代の話ですからね。

そんな中で、同盟国・ニッポンが独自の発展を遂げつつある理由を解き明かすことは、当時のアメリカにとっては極めて重要な課題であっただろう。
その秘訣が移植できるものであれば、他の同盟国にも適用したい、とか考えてただろうし。
多分、この調査の目的には、そんなことも含まれていたはずである。
本書にそこまで生々しいことは書いていないけれど。

2章以下、しばらくは、なんというか「調査レポート」のような記述が続く。
そこで描かれる日本企業の仕組みとは、次のようなものだ。

日本の有名企業では、経営幹部は少数の大学から、現場の工員は中学や高校から採用され、その身分を維持したまま終身雇用され、給与は、それぞれの能力で差が付くことが少なく、幹部と普通の社員の給与格差も小さい。
ただ、昇進するほど、良い社宅や社用車やその他もろもろの特権が使えるから、給与だけでは待遇は語れない。

社長は、対外的な活動を行ったり象徴的な役割を果たすことが多く、あたかも天皇のようで、常務や専務が行っている実務の意思決定を承認するだけのことも多い。

で、社員はよほどのことがないと解雇されないし、雇用の流動性は著しく低い。
年齢と共に待遇をあげていく必要があるため、やたらと管理職と肩書き(○○代理など)が多くなる。
ボーナスは、業績に応じて、というよりも、基本的な給与の制度を維持するための安全弁として使われている側面が強く、だから月々の給与には手をつけないけれど、ボーナスの額で人件費を調節していたりしている。

企業内労働組合の仕事は、主に給与とボーナスについて交渉することで、労働者の権利を守るとか、そういう意識は少ない。もともと解雇されることが少なく、従業員と会社の関係がうまく維持されている限り、労働組合に、そういった役割が期待されていない。

仕事以外の面でも積極的に部下の面倒をみるのが良い上司。
会社も社員の生活全般の面倒をみるといった意識が強い。
上司と部下の関係も、会社と社員の関係も、上司や会社が「家父長的」に振舞う共同体的な色彩を帯びている・・・と、まあ書き出すとキリがないのだが、要するに、いわゆる日本の「古きよき会社」の姿が、それを初めてみたアメリカ人の手で、冷静にあぶりだされているのである。

この仕組み、けして「生産性が高い」わけではないことは、当時から明らかだった。

自社と、類似した製品を生産しているアメリカの企業を比較したとき、生産性がアメリカ企業の50パーセントに達すると主張する経営者はめったにいない。アメリカ企業の6分の1から5分の1だとする推定が一般的である。

これは、なかなかにヒドい数字だけれども、だからといって、すぐにアメリカ式にしろ!などとは、著者は主張しない。

現時点で日本企業に特に必要なのは、アメリカのものとは逆の結果をもたらす生産方法だとも思える。
アメリカの生産方法は、労働の役割を最小限に抑え、組織を非人格化し合理化するように設計されるようになってきた。日本に必要なのは人間的な関係のなかで、労働を最大限にする生産方法である。
そうした制度を考案することはできるだろうし、そのような変更を進めることも可能だろうが、アメリカ社会を背景にしていれば、それに必要な変更は開発できない。日本のような企業制度でしか開発できない。

こうした主張の背景には、そもそも当時の日本は、まだまだ貧しくて労働力が余っていた、という状況があるのだが、理由はそれだけではない。

著者によれば、欧米の工業の発展は、合理的な世界観と人間関係の発展と深く結びついていたという。
具体的に言えば「人間関係は、身分から契約によって定められるものになる」「かつては個別の関係や、忠誠心、集団内での調和が協調されていたのが、合理的な目的と手段の関係を重視し、効率性と成果を強調されるようになる」といったことだ。

ところが、日本は、そうした社会の変化を経ずに、古い社会を残したまま工業化に適応したのではないか、というのが、著者の主張である。
それは、戦後だけではなく、明治維新においても。

今回の研究の結果から、日本企業の組織は工業化以前の日本にあった人間関係がそのまま、当然の道筋をたどって発展したものだと思える。
19世紀末の30年間(明治維新からの30年のこと。引用者注)に日本で起こった変化は、「革命」といわれることが多い。
たしかに日本はこの30年に、さまざまな点でそれ以前の時期から大きく飛躍している。しかし「革命」がどのような性格のものだったのかについては、疑問の余地が残っているようだ。日本の大企業を調査すると、基本的に封建的な組織原則に似た部分が随所にあるようだ。

誤解を招かないように書いておくが、著者は「日本の企業は封建的である。だからもっと改革すべきである」と主張しようとしているわけではない。
むしろ、その逆である。

本書の最後は、このように結ばれている。

欧米と人間関係の制度が大きく違う国で工業化を進めるためには、それによって効率性が犠牲になると思えても、その国の習慣や方法をかなりの程度まで許容する必要があるだろう。
工業化が成功し定着するのは、工業化以前の社会制度の継続性を維持する形で、その社会で基本になっている人間関係のパターンに基づき、そこから派生する形で変化が起きるときであろう。

つまり、日本が欧米に続く工業化に成功したのは、欧米の仕組みも制度も人間関係のあり方も全て丸ごと受け入れたからではなく、社会の基本的な部分を「日本的」な形で維持したまま、工業化に適応できたからだし、他国においてもそうするべきである・・・と言い換えても、あながち外れてはいないだろう。

どうもこの本、「終身雇用という言葉を始めて使った」という面ばかりが強調されがちだが、むしろ、このあたりに本領がありそうな・・・。

で、この議論を受け入れると、日本の工業化の成功というのは、明治維新でも、敗戦後の復興でも、日本社会の基本的な部分はたくみに維持しながらも、新しい技術や産業に適応していったところに、その秘訣がある、という話になりそうである。

となると、「第三の敗戦」といわれる今の状況からの「復興期」は、どういう形になるのだろう?
なんだか維持していくべき土台である「日本社会の基本的な部分」は、大分壊れてきた、というか、維持できなくなってきた、という感じもするしなあ。
少子高齢化で人口減少、なんて、おそらく日本史上、初めての事態だろうし。

でも土台になるべきものがなしに、改革といっても、何を作り上げることが出来るのか?

・・・ああ、なんだが議論が分不相応に大きくなってしまいました(汗)
だれか、頭いい人、あとは考えてください。いや、マジで。

とりあえず、アベグレンがこの本を書いてから50年後にかいた『新・日本の経営』という本があるようなので、そこでどんなことを言っているのかは読んでみたい。

にしても、あれですね。
名著というのは、たとえ表面的には内容が古くなったように思えても、やはり、それなりに考えさせるものがあるものです。
ま、そんな名著をせっかく新訳版で発行しても、結局絶版になってしまうわけだけれども。
所蔵していた地元の図書館に、とりあえず感謝しておきます。