仕事の約束はちゃんと文字に起こしておかないとね―『ビジネスパーソンのための契約の教科書』福井健策著

それでは是非、契約書の方を・・・とまあ、このブログの中の人も、昼間は時にこんなセリフを口にする時があって、それはそれなりに緊張する瞬間ではある。
お客様に押印いただかないと、ビジネスが先に進みませんからねぇ。

社会人になって数年目に、管理的な部署に異動して、まあ、そんなにたいした内容ではないのだけれど契約書に印鑑つくような仕事が増えて、最初のうちは、大層緊張してました。不器用だから、印鑑キレイに押せないんじゃないかと。あと袋とじのがキレイにできなかったりとか。いまだに市販の製本用シール張るのだって、ゆがむんじゃないかと緊張するくらいですからねえ。

まあ、ビジネスに限らず、大人になると、この「契約」というヤツに直面しなければならない場面というのは増える。
ネットの世界なんて、なにかというと「同意する」のボタンをクリックしなければ先に進めないわけで、ここにも当然「契約」というものが存在しているわけだが、日本人には「契約ってなんなのさ?」という知識と意識が欠けている人が多い。
それでいいのかよ? まずは基本から押さえていきましょうよ、というのがつまり、この本の著者の主張でもあるわけだ。

ビジネスパーソンのための契約の教科書 (文春新書 834)

ビジネスパーソンのための契約の教科書 (文春新書 834)

この本、小口(本の背表紙の反対側の、なんっていうかページの紙ばっかりの方。これで伝わっているのか?)の半分、つまり内容の後半部分に当たるところがグレーになっている。
ちょうど、ここで内容が大きく変わるのだ。ちょっと面白い工夫ですね。

で、前半部分は、最近の「契約」を巡って「つかみ」になるトピックを語り、後半はまさに「契約とは何ぞや」という基本的な知識や、ビジネス上で必要な基礎の基礎の知識について語るという構成である。

著者は国際コンテンツビジネスの契約を専門とする弁護士さんなので、前半では、「ウルトラマン」や「ディズニー」、「スピードレーサー」(「マトリックス」の監督が手がけた、日本のアニメ「マッハGO!GO!」のハリウッド映画版)のライセンス契約をめぐる話題がいろいろ。

ディズニーといえば、なにしろ著作権に厳しいことで有名で、バラエティ番組でパロディやったら「大人の事情」でモザイクかかってたり、なんてのは日常茶飯事だけれど、じつは、初期の頃、著作権で痛い目にあっていたという話はちょっと面白い。

実は、ディズニー自身が、ミッキー以前の最初のヒットキャラクター、「オズワルド」というウサギの著作権を、当時のハリウッドのメジャー映画会社にとられた、という過去を持っています。
彼らは取り戻すためにメジャーと交渉しますが、失敗する。そこで、二度とその轍はふむまいとあらたにミッキーマウスを作り(「オズワルド」をアレンジしたデザインでした)、その著作権は当然ながら誰にも渡さなかった。

なるほど。そういう原体験が、今のディズニー帝国をつくるきっかけになったといえそうである。
そして、本書全体の著者の筆致には、そういう海外勢(ま、おもにアメリカですが)に、けっこういいようにやられている日本のコンテンツビジネスにたいする歯がゆさがにじみ出ている。

youtubeの規約によれば、画像をUPした瞬間に、その利用権はすべてyoutube側がもっている(しかも、UPできるということは、すでに利用者が、そういう内容の規約に同意した、という契約を結んだことになっている)ために、だから、たとえば

皆さん、カラオケで歌った映像など、酔いに任せてアップしていませんか? どっかのTVショッピングチャンネルで突然、「カラオケのヘタなサラリーマンの映像」としてご自分が登場するかもしれません。

ということも、合法だったりするわけだ。

他人が権利をもっている映像とかをUPすると大変である。なにしろ「投稿した映像については全ての権利が処理済みであり、投稿した映像をユーチューブがどう利用しようが、ほかの権利を侵害」しない、ということを、投稿者が請合っている・・・ことになっているそうですから。

著者に言わせると、契約を結ぶにあたって、「アメリカ人は交渉する。日本人は『真意』を問い合わせ、『悪意』がないことを知ろうとする」のだそうである。

日本側は、国内契約だったら絶対に一蹴するような条件でも、「一蹴」や「交渉」ではなくしばしばこの「問い合わせ」をやります。何を問い合わせるか。一言で言えば、相手方の「真意」を問い合わせるのです。
問い合わせると相手方は、「我われはしかじかの理由でこういう条文にしている。が、念のためこうしているだけであって、悪いようにはしない」といった説明をしてくることが多いでしょう。すると日本側はしばしばこの説明で納得するのです。「納得したがる」というほうが正確かもしれません。

そして、そういう発想になるのは、「私たち日本人の多くは、自分と相手に利害の対立があるという状況が居心地がわるいから」だと著者は言う。
あ、なんか分かるなあ。でも、ビジネスの現場で「利害の対立」なんてしょっちゅうですよね。となれば、居心地悪くても、やるしかないわけで。
ところが、とくに相手が大きくなるほど「合意最優先」で、とにかく契約を結ぼうとするあまり、「合意」が「条件をつめる」ことよりも大事になるという、本末転倒なこともおこるわけで。。。

本書の最終章で、著者は「日本と日本人の契約力を高めるために」として、「3つの、あまり新鮮味の無い契約黄金則」というのを掲げている。

黄金則その1:契約書は読むためにある
読んで理解して、理解できないところがあったら誰かに聞いて、困ることがあれば相手に直してもらう。そのために契約書は存在する。
著者の経験によれば、日本人は契約交渉の場で醸し出される「印鑑を押さないと悪いような空気」に弱い、らしい。

黄金則その2:「明確」で「網羅的」か
まあ、当たり前といえば、当たり前ですけどね、これは。でも、著者の言葉を借りれば「一番大事で、一番難しいこと」でもある。読みやすいことと「正確で網羅的なこと」は必ずしも一致しなかったりするし・・・。とはいえ、これは常に心がけなきゃいけないですね。

黄金則その3:契約書はコスト。コストパフォーマンスの意識を持つ。
契約書作成にはそれなりに手間がかかる。契約書によってリスクを減らせるメリットが、契約書を作るコストを超えているのなら、契約書を作るべきだし、契約書によって得られるメリットに見合った程度のエネルギーを、契約書の作成には注ぎ込まなきゃいけない。
ま、「なんで契約書いるんですか?」「昔からそうしているから」なんてのは最悪の発想ですけど、案外にそういうことは少なくないような・・・。

そしてもう一つ、著者がまとめている、日本人が契約を使いこなせるようになるための課題というのも列挙しておこう。

①重要なのは「書式」よりも対話の力。
書式やフォームにこだわるよりも、まずは相手と対話して合意し、それを生かした契約を結ぶことが大事ですよ、ということですね。

②合意至上主義、交渉決裂は「失態」という意識を乗り越える
なにがなんでも合意しないといけない、という呪縛はよろしくないですよ、ということで、ダメなものはダメで仕方ない、という開き直りも時に大事だ、ということでしょう。何が何でも合意したはいいけれど、フタをあけてみたら大変なことになっていた、といのでは、目も当てられません。

③国際契約を対等に近づける努力
どうも日本人は、相手の言語やフォームをはなから受け入れざるを得ないと考えてしまいがちらしいので、それはやめましょうよ、ということ。
ま、このブログの中の人は、今のところ海外との契約なんて縁が無いので、リアリティがないのですが、でも、分かる気はする。

④業界知識・契約知識・相場観を知る
これはもう、当然といえば当然。なかなか大変ですけど。


⑤契約交渉は必要なコストだという認識

これは、先の黄金則とかぶりますね。 ま、でも「契約書などはセレモニーみたいなもの」と考えている人が、日本にはまだまだ多いという指摘は、ちょっと耳が痛い。

⑥「花形」としての契約交渉セクションの育成
これは国際交渉を生業とする弁護士さんの業界用語的な発言ではないのかという気もしますが(笑)、まあこれから、そういう人たちの活躍の場は増えていくのでしょうね。

本書の後半の「教科書」的な部分は、まあ「初歩の初歩」なので、先刻ご承知の方には、正直物足りないかもしれない。
でもこういう一歩から、ということでしょう。

なお、本書の最後には、 <注意>として「本書は契約について、一般的・概括的なガイダンスを与えることを目的としています。契約に必要な知識は、本書だけで全てカバーできるものではありません・・・」といった「免責条項」が書かれている。
さすがプロ。その辺の抜かりはないようである。