ブームと「終わコン」が作られる過程について ― 『「有名人になる」ということ』勝間和代著

以前からリアルでおつきあいがあって、このブログを読んでいる方に、「『あの本』についてはブログかかないの?」と聞かれてしまいました。

このブログの中の人は、この人の著書や言動について結構批判的(ととれるよう)な言辞を繰り返していたので、果たして、新しい著書、それも、この人があれよあれよという間に有名になり、そして最近少しナリをひそめたかのように見えるその「カラクリ」を自ら語り明かした本書に対してどんな感想をもつのか興味を持たれたのだろう。

その本とは、これです、はい。

この人のおこした「カツマーブーム」華やかなりし頃、精神科医斉藤環氏が、彼女の存在とその「消費のされ方」がはらむ問題点について、鮮やかな分析を展開して見せたことがある。
このブログの中の人は、なんだか自分の中にあるモヤモヤとしたものを、鮮やかに整理して見せてくれたような心持になって、偉く感心したものだ。

今でもその分析はネット上に公開されているので、以下にリンクを貼っておく。

『“勝間和代ブーム”のナゼ』
http://shuchi.php.co.jp/article/755

この中で、斉藤氏は、勝間和代が目指している(と思われる)「社会改革」と、多くの「カツマー」を集める原動力ともなった「自己啓発」との間に横たわる乖離について指摘している。
だが、今回の本を読むと、斉藤氏の分析も、なんというか、勝間和代の「手段」に過ぎないものを、大げさに分析しまったということなのだろうな、という感じがして、なんだか斉藤氏に同情にも似た気持ちが浮き上がってくるのだ。

どういうことかって?

本書で勝間氏が言っているのは、簡単にまとめてしまえば、「私が有名人になったのは、ビジネスとしての戦略に基づいてのことなんですよ。で、その戦略とは、こういうもので、実際にやってみると、こんなメリットやこんなデメリット、予想外のこんなことがあったんですよ」というノウハウ&経験談なのである。

とすれば、斉藤氏の批判も、なんだか戦略的に構築された「手段」の部分を、正面切って大きく批判してしまっているような感じがして、どうも勝間氏のかいた設計図の部分品をことさらフレームアップした議論のように見えてしまうのだ。

もともと勝間氏は「社会的責任投資(SRI)ファンド」を作るために会社を作ったのだという。
SRIとは、環境・教育・少子化対策などなど、社会問題を解決することに熱心な企業に資金を投資することで、社会を改善しようとする活動だ。

ところが、リーマンショック以降、海外の大口の顧客が日本を撤退、新規顧客の獲得も難しくなり、実質的にはSRIとは言い難い、通常の投資アナリスト業務が多くなる中で、勝間氏が考えたのだ。

「そうだ、わたし自身が有名になって、これまで実現できなかった社会的責任についての発言を行える立場になればいいのだ。そして、その活動でものすごく潤沢でなくてもいいけれども、今いる社員とその家族が困らない程度の収入を得られる道はないだろうか」

かくして、コンサルタントとアナリストとして磨いた分析力と戦略構築力でもって、「有名人になる」ことをプロジェクト化し、それを実現してしまったのだから、なんともアッパレな話ではある。

当初、著者がたてた目標は、BtoCビジネスを主力に据えたうえで、「非助成認知率」(顔を見たときに、名前を挙げてなくても誰だか分かってもらえる確率)を30パーセントにする、いいかえれば、世の中の3〜4人に一人は、顔をみれば誰だか分かってもらえるようにする、ということだったという。

そのための具体的な方法論は、もし「自分も有名になりたい!」という方がいれば、ぜひ本書にあたってみていただければとおもうが、『金曜日のスマたちへ』へ出ることと、『紅白歌合戦』の審査員になることを具体的な目標にかかげて周囲にも公言し、『情熱大陸』ほかの「有名人をつくりだし、そのことによって儲ける仕組み」に巧みにのっていく過程は、「カラクリの種明かし」という感じてなかなかに興味深い。
ちなみに『金スマ』は、『女性の品格』ほか、ベストセラーを生み出した実績が随一のテレビ番組で、紅白歌合戦の審査員というのは、毎年「文化人枠」が一つあるので、そこに収まることが「その年一番活躍した文化人」の証になるのだそうである。
(ここで「文化」ってなんだろう? という話をしだすので、またややこしいことになるんで、とりあえず、置いておく)。

勝間氏の新刊が続々と本屋に並ぶようになった頃、そのテーマは拡散し、質もだんだんと低下していっていることは、あちらこちらで指摘されていたが、本書になれば、そのことを一番よく分かっていたのは、当の本人だったようである。

勝間氏の自己分析によれば「人前に出るのが苦手」で、「不特定の人に、落ち着いてやさしく話すということも得意ではありません。得意なのは専門的な話に関して、その話を聞きたがっている人に、短時間にできるだけ多くの情報を投げかけるだけです」という著者が、バラエティ番組にでたり、「そこに有名人がいるから使ってみよう」というビジネス的な要請にこたえて仕事をこなしていけば、それは質が低下していって、当然ではある。

そんな過程を得て、著者が得た教訓は、簡単にまとめれば
「有名人になる金銭的な見返りは、思ったほど大きくないが、最大の魅力は人脈が広がり、社会への発言力が大きくなること。一方でデメリットは、『衆人環視の中で生きる』必要があり、見知らぬ人から誤解も含めた批判や攻撃を受けること」
といったことだろうか。

かくして、「有名人になる」という戦略的ビジネスにかなりの成功を収めつつ、段々と「手段と目的」がごっちゃになったり、またブームの周期からいっても潮時と考えて勝間氏は、2011年には意識的に仕事をへらしたそうだ。
その結果、ネットではさっそく「終わコン」(=終わったコンテンツ)呼ばわりされるようになるわけだが、2012年には、また違った展開で、この「有名人」というビジネスに取り組むそうである。

著者本人も語っている通り、これほど「有名人になる」ということを明確な目標として、戦略的な方法論を打ち立てた上で取り組み、実際に結果をだして、しかもその過程を積極的に開示して本にまとめた人というのは、極めて珍しいだろう。
もちろん、それを実行するには「ひたむき」で「前向き」な努力が不可欠なのであって、その意味で、確かにすごいことだと思う。

でも、そこに、そこはかとない「ズレ」や「違和感」を感じるのはなぜだろう?

勝間氏は、あとがきの中で、「有名」になりたかった理由として、こんなことを語っている。

私の目的は、環境、教育、男女共同参画などを中心とするさまざまな社会問題の解決に貢献したい、多様性を進め、自分の後輩や子どもたちのためによりよい社会を残したい、そして「勝間和代がいてよかった」と思ってもらえることでした。
 でも、それ以上に、わたしは自分が自由であること、そして、自分の学習欲求を満たすことが大好きで、そのふたつを満たすために、すなわち自分が幸せになるために行動をしていたら、自分がいまの状況にたどり着いたような気がしてしょうがありません。

当初の「ビジネスとして『有名人になる』ことに取り組んだ」という話からは大分ずれてきているわけだが、いずれにしろ、こういう考えのもとで、さらに新しい形で「有名人ビジネス」に取り組もうとしている、ということは、まだまだ「自分が幸せになるための行動」を追い求めていく、という宣言ともとれる。

どうやらちょっと有名になったくらいでは、人は幸せにはなれないものらしい。

ところで、冒頭に引用した斉藤氏の分析には、「三毒」に関する批判が出てくる。

ちょっと長くなるが(そして、リンク先を読まれた方には重複することになるが)引用する。

たとえば彼女による仏教の「三毒」解釈は、非常に独特である。彼女は「怒る、ねたむ、ぐちる」という、いわば三毒の俗流解釈を真に受けて「怒らない ねたまない ぐちらない」という言葉をワープロで打ち出して職場の机に貼っておいたという。<中略>
 しかしその後、専門家をはじめ多くの人が、「仏教三毒」としては間違った解釈であることをネット上で指摘している。

 本来の三毒とは、「貪・瞋・癡」と呼ばれる3つの煩悩を指す。具体的には「貪:貪欲ともいう。むさぼり求める心」「瞋:瞋恚ともいう。怒りの心」「癡:愚癡ともいう。真理に対する無知の心」である由。もちろん「愚癡」=「愚痴」ではない。
〈中略〉
「自分をグーグル化」しているはずの勝間氏が、こうした指摘を目にしていないはずはないのだが、なぜかいまだに訂正もなく「私の三毒」ではなく「仏教三毒」とされつづけている。不可解といえば不可解な行動だ。精神分析的には「否認」(あるのに、ないと言い張ること)とも取れる態度である。

 仏教の教えにおいて、「煩悩」をいかにコントロールするかは重大なテーマである。しかし、勝間流の三毒追放が何をめざしているかといえば、「年収10倍アップ」ないし「効率10倍アップ」である。そのことの是非はともかくとして、これらは仏教的にはどう考えても「貪欲」そのものではないか。

そして本書には、こうした斎藤氏の疑問に対する答えはない。。

そういえば、3.11以後の一時期、とくに原子力やエネルギー問題の専門家というわけでもない勝間氏が、福島原発の問題について積極的に発言していた時期があった。(そして、ずいぶんとネットでたたかれていた)。

このブログの中の人が、勝間和代という人にどうもなじめない理由の一つに「専門外で結構いいかげんなことをいっているのではないか」というのがあるのだが、どうなんですかね?

それは、「有名人になる」というプロジェクトの過程で、露出を増やし間口を広めるためにやむを得ず起こったことなのかどうか。
と、すれば、2012年以降、新しい形で進められるという「有名人プロジェクト」の中では、その辺は改善していくのか?

まあ、それほど熱心に見つめていくつもりはないけれど、すこし距離を置いたところから見守っていきたい、という気はする。