ネットという「公共圏」に膨大な情報が流れる時代について、取りとめもなく考えてみた ― 『パブリック』 ジェフ・ジャービス著

これが、どの程度、一般的に知られている話題なのかはよく分からない。
ヘビーなネットユーザーの方ならば、先刻ご承知の話題だろうし、そうでない方の中には「えっ! そんなことになっているの?」と驚く方も、いるかもしれない。
このブログを読みに来てくださる方が、そのどちらなのかは、よくわからないのだが。

で、何がおこっているのかというと、今、ネットで「大津のいじめ事件」について、ちょっとした騒ぎが持ち上がっているのである。
「加害者」とされる少年や家族の個人情報が「まとめサイト」に上げられて、それにまた、FACEBOOKを通じてコメントを寄せている人もいるという事態。

「加害者」の少年や、家族がFACEBOOKGreeを利用していたこともあって、ずいぶんと色々な情報が突き止められてしまっているわけだ。

今、ネット上には、驚くほど大量の、個人にかかわる情報が流通している。
それは、“誰か”や“なにか”に強制されたものというよりは、それぞれの個人が利用者として、自ら進んで提供しているものなのだが、それらはすべて、ネット上に流通し始めた途端に「公共」のものになる。
つまり、流した当人の意思とは関係なく、あらゆる角度から参照されたり、利用されたりするものとなるのだ。

個人の情報やら意見やらが、膨大に「公共物」となっていく。
これは、オオゲサな言い方をすれば「人類始まって以来」の事態なわけだが、果たして、それを「是」とみるか「非」とみるか。
それを「是」とみる立場から書かれたのが、たとえばこの本なわけである。

パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ

パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ

この本の基本的な立場は、「イントロダクション」の、この一説に凝縮されている。

僕はこの本をとおして、もしプライバシーに固執しすぎればこのリンクの時代にお互いにつながりあう機会を失うかもしれない、と言いたい。インターネットのリンクは、奥深い影響をもつ発明だ。リンクは僕らをウェブのページにつなげるだけでなく、人や情報や行動や取引をつなげてくれる。リンクは、僕らが新しい社会を形づくり、パブリックであることを再定義することに役立つ。未知なるものを恐れるあまり、リンクの網から自分を切り離す時、僕らは、人として、企業として、組織として敗北することになる。自らをオープンにすれば、僕らは学び、つながり、協力する機会を得る。

著者は、自ら前立腺癌を取り除く手術を受け、その影響で一時的に失禁や勃起不全の症状がでた経験を自らブログに記すくらいの「パブリック」な人物で、そのことでキャリアを築いてきた。
その実践に基づいた言説には、説得力とともに「フツーの人にはそこまでできないよ」感がただようわけだが、ま、「なんかネットってなんだか、やっぱり怖いよね」と思っている人ほど、その対極にある主張に耳を傾ける価値はある、という気はする。

もちろん、こうしたパブリックの価値に懐疑的な人たちも世の中にはたくさんいて、そのあたりの考え方は国によっても違う。

本書では、「プライバシーへの執着」が強い国として、ドイツの例が挙げられている。
グーグルストリートビューでドイツの風景をたどっていくと、突然のモザイクにおって視界を遮られることが多々あるという。ブログで自分の日常や意見について共有しようとする人の数も、他の国に比べて少ないそうだ。

一方で、アメリカでは、クレジットの買い物履歴をネット上に公開するサービスが、それなりの利用者を集めていたりする。いささか驚かざるを得ないが、まあ、「私、こんなもの買ったのよ」と自慢することが、人の自尊心をくすぐる一種の娯楽であることを考えれば、その行き着く先は、そういうことになるのだろうか。



さて、わざわざブログで取り上げておいて、こんなことを言うのもなんなのだが、正直、この本、なんだかまとめにくい。

著者の個人的な体験から、パブリックにおけるビジネスや企業のあり方やら、グーデンベルグによる印刷術の発明とネットの普及を対置させての文明論まで、極めて幅の広い論点を、膨大なエピソードの集積やら引用やらを交えながら論じているからだろう。
それは、なんだかずるずるとネットサーフィンしていきながら一つのテーマを追っているような趣で、それは、ある意味、極めて「ネット的」といえるのかもしれないが。

そんな中で、著者がいう「パブリックであることの注意点」は、ネットリテラシーを論じるうえでは、落とせない論点だろうなあ、という気がする。
なにしろ、これだけ「パブリック」である価値を力説する人にして、「注意すべき」と言っているわけだから。

全てを引用はしないけれど、主なところをいえば
・タトゥーの法則(=一度ネットに投稿した内容は永久に残ることを忘れてはいけない)
・一面の法則(=新聞の一面に出て困ることはいうべきではない)
・「荒らしにかまわない」の法則(これは「言わずもがな」ですね)
・正直さの法則(=ネットでは失敗したら、それを自分の責任と認めることが極めて大切)
といったところである。
まあ、よく言われていることではありますがね。

でも、案外「タトゥーの法則」を忘れている人は多いような気もするけれど。。。


果たして、ネットのもたらす「パブリック」が、著者のいうような「バラ色の未来」をもたらすのかどうかは、このブログの中の人にはよく分からない。

著者は、よく言われる「ネットにおけるプライバシーに対する疑念」を、説明のつかない「なんとなく気味悪い」という感情に基づく非合理なものとして退けようとしているが、やはり「非合理的」というだけで、払拭できるものでもないと思うし。

冒頭に紹介した「大津の事件のまとめサイト」を見ると、ものすごい熱意をもって関係者の実名や行動を突き止め、事件の真相を暴こうとする人たちの存在を感じる。
そして、それを応援する人たち(しかもFACEBOOKを通じて、実名で)が確実に存在し、その痕跡はネット上に永遠に残るわけだ。

もちろん事件は痛ましいものだし、もし事件に「加害者」がいるのであれば、そこに大きな怒りが生まれるのは当然だろうと思う。
そして、「まとめサイト」に情報を提供する人々や、そこに喝采を贈る人たちの動機が、人としてある種の「正義」に基づいているのもわかるのだが、それでもなんだか、あの「まとめサイト」を見ていると、言いようのない戦慄が走る。
多分それは「なんとなく気味悪い」というだけで片づけてはいけない感情だとも思うのだが、どうだろうか?

・・・と、今回は、なんだか、紹介した本自体は、単なる「触媒」に過ぎないのであって、つまりは、あの「まとめサイト」を見たときの、なんとも言えない気分を少しでも整理しようかと思ったのだが、どうやら全く整理はできていませんね。
ここまで読んでくださった方には、なんだか申し訳ない気分である。

ただ一つ、確実にいえることは、ネットによる「パブリック」の拡大は、もはやだれにも止められない、ということだろう。
かつて、SFの世界では、強大な国家権力が個人情報を徹底的に収集し、個人の行動を監視する「アンチ・ユートピア」な社会を取り上げたものがよくあったけれど、現実はそれとは大分違って、情報を提供するのも、監視するのも、それぞれの個人の自主的な意思によるものになりつつある。

本書の著者によれば、それは「よりよい社会」へのあらたな一歩であるわけだが、果たして・・・。