科学を妄信する人と、科学を否定する人はどこか似ている・・気がする―『疑似科学入門』 池内了著

トンデモ本」という言葉は、今、どれくらい通じるのだろう?

今回取上げるのは、この本なのだけれど、これを読んでいるうちに、イヤが上でも「ドンデモ本」という言葉が思い出されたのである。

疑似科学入門 (岩波新書)

疑似科学入門 (岩波新書)

ドンデモ本。
この言葉が市民権を得た、というとオーバーだけど、一般に多少は知られるようになったのは、その名も『トンデモ本の世界』という本がちょっとした話題になった1995年のことであった。
この年は、1月に「阪神大震災」、3月にオウム真理教による「地下鉄サリン事件」が起こり、バブルの夢から覚めつつあった日本人の心に、言い知れぬ不安をすべりこませた時期である。
もっとも、それが、もうすでに始まっていた「失われた20年」の序章にすぎなかった、などということは、当時、ほとんどの人が気づいていなかったわけだけれど。

なんだか、書き出しから大仰だな。

で、「トンデモ本」である。
トンデモ本の世界』によれば、それは「著者が意図したものとは異なる視点から読んで楽しめるもの」であり、著者の大ボケや、無知、勘違いなどにより、常識とはかけ離れた内容になってしまったものを言う。
そうした本をセレクションして、どこが面白いかを解説し、一緒に笑おう、というのが『トンデモ本の世界』のコンセプトであった。

何でもかんでも無理やり「ユダヤの陰謀」に結び付けてしまう本とか、設定がめちゃめちゃな架空戦記とか、トンデモ本にもいろいろな種類があるんだが、やはり中でも、数も多いし、目立つのが「疑似科学」の分野であった。

疑似科学
つまり「科学のように見せかけて、実は科学でもなんでもないもの」の総称であろうが、しかし、案外その区別は難しかったりする。
歴史を振り返れば、全く信じられないようなことが科学的に証明されたり、正しいと思われていたことが、根本から否定されたりしたのだから。

本書(あ、『トンデモ本の〜』じゃなくて『疑似科学入門』のほうです)の著者は、疑似科学を「科学を装った非合理」としたうえで、それを独自の視点で以下の3つに分類してみせる。

【第一種疑似科学】悩みを解決したいとか、未来を知りたいという人間の心理(欲望)につけこみ、根拠のない暗示を与えるもの。占い系やスピリチュアル系など。

【第二種疑似科学】科学を援用・乱用・悪用し、科学的装いをしていながら実態の無いもの。これは、
1)科学的には否定されている永久機関ゲーム脳など。
2)あたかも科学的根拠があるように見せているマイナス・イオンやある種の健康食品のようなもの。
3)確率・統計の錯誤を利用し、見かけ上の相関関係を因果関係であるように見せたりして、人を騙す言説、
といった具合に分類される。

【第三種疑似科学】「複雑系」で科学的に結論を出しにくい問題について、原因を曖昧にする言説。
たとえば「科学的に有害とは証明されていない」ことを「無害」としてしまうような場合を言う。
遺伝子組み換え作物や、放射能の影響も、この範疇に入るだろう。
(本書は3・11以前の出版だから、放射能への言及は無いけれど)

第一〜第三、というネーミングに愛想がないよな、という問題はとりあえずおくとして、本書の新しいところは、この分類、とくに第三種疑似科学の定義だろう。

この独自の分類で疑似科学を分類・解説した後、本書は、そうした言説が世に受け入れられる理由や、それに対処する方法を考察していく。

まあ、、第1種と第2種の対処については、従来から言われているような内容である。
論理的思考、科学的な知識、思考のバイアスに囚われないようにすること、などなど。
これは、いわば「ロジカルシンキング」の世界といってもよいだろう。
あと、「○○大学教授の推薦!」みたいなのを安易に信用しない、とかw

では第3種の疑似科学には、どう対処すべきなのか。

じつは、これは、「現代の科学が苦手とする分野」でもある。
携帯電磁波の人体への悪影響とか、様々な要素が複雑に絡み合い、明確な答えが出にくいものが多いのだ。
地球温暖化は、本当に二酸化炭素が原因なのか、という論争も、その一つ。
実は二酸化炭素の増加が地球温暖化の原因とはいえないのではないか、と主張する科学者も、好くなからずいるのである。

だが、そこで「科学的に有害であるとは証明されていない」と言い切ってしまうと、その複雑さゆえに、なかなか因果関係をつかめない危険を、見落としてしまう恐れがある。
そこで必要なのが、「予防措置原則だ!」というのが、著書の主張である。
これは、簡単に言えば「科学的には完全に因果関係が説明できないことでも、なんらかの危険性が否定できないのであれば、まずは予防的な措置をとるべきである」ということだ。

地球温暖化の問題で言えば、「たしかに、二酸化炭素地球温暖化の原因であるとは、きちんと証明仕切れていないかもしれない。でも、その可能性があって、その結果として地球環境、ひいては人間の生存に多大な影響を与えるのかもしれないのならば、予防の対策をとるべきである」という考え方になる。

なるほど、確かに説得力がある・・・のだが、個人的には、そこで、またあらたな論点がでてくるのではないかという気がしている。

それは、予防措置にかかる「費用」の問題が、あまり考慮されていないのである、この本。

予防措置を徹底するために、無限の費用がかかるとしたら、どこかでその措置を断念しなければいけなくなる。
「無限」とは言わないまでも、やはり「どこまでお金をかけられるか」というのは、ほかの問題とのバランスでしか、考えられないだろう。
「銭カネで健康や地球環境は買えない!」という意見はもっともだけれども、でも経済が回さなければ「明日食べるご飯も買えない」人が出てくる可能性は、排除できないのだ。
ふぅ〜。難しいねえ。

このブログの中の人は、とてもじゃないけどそんな難問に答えを出せる知性は無いので、話を少しずらしてしまうのだが、個人的な経験でいうと、「疑似科学」にはまる人って、案外、「学生のときはバリバリの理系でした」という人が多いような気がしている。

そこでは、「科学って素晴らしい。科学で全てが説明できる」という思想が、やがて何かの壁にぶつかり、そのうち「今の科学なんてウソばっかりじゃないか。真理は科学なんかじゃなくてスピリチュアルの世界にある!」みたいなほうに、旋回しちゃうのである。

これって、案外単純な話で、つまり「今の科学は、まだまだ解明できないことがあるし、人間の力で全てを理解したりコントロールしたりなんて、(少なくとも今の段階では)できっこない」という、当たり前のことが受け入れられないだけではないのか、と思ったりもするのだが。

だいたい、世の中は理不尽だったり、なかなか理屈では割り切れないことはあって当然なわけで、科学にしろ「スピリチュアル」にしろ、全てを解決できる妙薬なんてあるわけがないのだ。
それを求めているとしたら、それは人間の傲慢、だろう。

あと、あれだ。
疑似科学にはまる人は、だいたい「今の医学や科学は、学者や製薬会社や官僚や産軍複合体の利権構造で動かされている」という陰謀論にはまることも多いようだけど、それもねえ。
全くそういうことが無い、とは言わないけれど、案外、世の中にはマジメで一生懸命な科学者や医者もいるもんですよ。

今、自分の母親は闘病中で、それは、広い意味で今は無き父や祖母と同じ種類に属する病気にかかっているからなのだが、父や祖母と比較すると、明らかに医学(科学)が発展していることに、驚かされます。

とはいえ、科学者が「絶対安全」と言っていたことが、「実はそうではない」と分かってしまった3・11以降、科学と疑似科学の間、そして「第三種疑似科学」への対応はどうあるべきか、という問題は、この本が書かれた頃とはまた違った局面を見せ始めているのも事実でもある。

ここは、とりあえず、「トンデモ本の世界」のあとがきにある一節を読みながら、科学との付き合い方を考えることにしよう。

氾濫するトンデモ本に対して、我々はどう対処すべきなのか?
答えはひとつ―笑い飛ばすのである。

簡単なようだが、これがなかなか難しい。すでに見てきたように、科学的間違いを笑うためには、科学知識が必要だ。非常識な考えを笑うためには、常識が必要だ。無知で非常識な人間は、ドンデモ本を読んでも笑うことはできない。

まあ、現実のほうが、とても笑うどころじゃない様相を見せ始めると、なかなか、こうした考えを持ち続けるのも難しかったりはするのだけれど。

ご参考リンク 
トンデモ本の世界―MONDO TONDEMO