語ること、語れないこと、分かること、分からないこと ― 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 野矢茂樹 著

内容の理解がおぼつかない本について、ここに書くというのは禁じ手というか無謀な話なのだけれど、でも、やってしまう。
そんな気にさせられた本だったわけですよ、はい。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)

(↑上の画像や書名はamazonにリンクしています)

ウィトゲンシュタインという人のことは良く知らないという人でも、「語りえないものについては、沈黙しなければならない」という言い回しをどこかで聞いたことがある人は多いかもしれない。
ま、どっちも知らなかったとしても、それはそれで何も問題はないが。

まあとにかく、なんとも「カッコいい」言い回しなので、このブログの中の人も恥ずかしながら、真面目な場面で「好きな言葉」をあげてください、といわれたようなときは、このフレーズをあげている。
(ちなみに、あまり堅苦しいことを言わないほうが良いときは「果報は寝て待て」「棚からボタ餅」あたりをあげることが多い。これはこれで、けっこう本心)。

このフレーズは、ウィトゲンシュタインの著書『論理哲学論考』(以下『論考』)の、テーマでもあり、結論なのである。

『論考』という本は、はなはだ風変わりな本で、本文の冒頭を引用するとこんな感じ。

1 世界は成立していることがらの総体である。
1・1 世界は事実の総体であり、物の総体ではない。
1・11 世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。
1・12 なぜなら事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないのかも規定するからである。
野矢茂樹訳の岩波文庫版。原本では数字は漢数字表記)

…とまあ、こんな調子で、世界を写すものとしての言語や論理の姿を探求することによって、我々の論理、考えうること、語りうることの限界を見極めようという試みだ。
まあ、フツーの人がフツーに取り組んでなんとかなるシロモノではない。

例のフレーズは、都合2箇所でてくる。
まず序文。

本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のように要約されよう。およそ語られうることは、明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。

そして、末尾である。

6・54 私を理解する人は、私の命題を通り抜け ―― その上にたち ―― それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子を上りきった者は梯子を投げ捨てねばならない。)
私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。
7  語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

なんだかよく分らないけれど、なんかカッコよくないですか? 
いや、別段カッコいいと思わない人がいてもそれはそれでよいし、そういう人にとっては、今回取り上げた本は「必要のない」ものでしかないのだが。

著者の野矢先生は、冒頭で快調に言い放つ。

『『論理哲学論考』を読む』という本を読んでも、『論理哲学論考』を読んだことにはならない。当然のことである。他方「『論理哲学論考』を読む」などというゼミに出たりすると、それは『論理哲学論考』という本を読むのである。<中略>
本書を読むことは、『論理哲学論考』を読むという体験でもあろう。つまり、私が開講する「『論理哲学論考』を読む」というゼミに参加するような体験を本書で味わっていただきたい。

まったくの一般論であるが、哲学の解説書というのは読まないほうがよい。<中略>「はやわかりナントカ」という本となると、哲学を殺しにかかっているとしか思えない。と、言い放っておきながら何なのだが、では本書はどうかというと、『論理哲学論考』を理解したいと思うならば、この本を読むのが現時点で最短であるといいたい。

で? それは最短の道でしたか、というと、まあたぶん、そうなのだろうという感触はもったのだが、それでもまあ、かなり遠い道ではありました。

ごくごく簡単にいえば、ウィトゲンシュタインがやりたかったことは、こういうことらしい。

人間の思考の限界はどこにあるのか?

それを見極めるためには、「思考の外側」にあるものが何なのかを見極めなければいけない。
どこが限界か見極めるためには、限界のこちらがわと向こう側を見極めなければいけないのだから。

ところが、「思考の外側」にあるものは、「思考」することができない。
当たり前といえば、当たり前である。
外側にあるんだから。

そこで、ウィトゲンシュタインは、「思考されたものの表現に対して」限界を引く。
つまり、人間が世界を写し取る道具としての「言語」と、それを組みあげるものとしての「論理」によって表現できることの限界を見極めようというわけだ。
思考そのものの限界の向こう側を直接思考することはできない。
そこで、、思考の道具であり、思考を表すものである言語と論理の限界を見極めていくと、そこで「語りえないもの」、つまり人間の思考の限界の向こう側にあるものが分ってくるでしょ・・・とまあ、そんなようなことだ。
たぶん。

結論めいたことをいえば、たとえば「論理」や「倫理」は「示されうるものでは合っても語りうるものではない」というところに話は行き着くのだが、そこまでの議論は・・・はい、そうですね、興味がある方は本書をお読みくださいということで(笑)

ウィトゲンシュタインはこの本で「本書に著された思想が真理であることは犯しがたく決定的であると思われる。それゆえ私は、問題はその本質において最終的に解決されたと考えている」と言い放ち、しばらく小学校の教師に転職したのだという。
いずれ、自らの思想の間違いに気づき、そこから「後期」とよばれる思想の展開に入るのだが。


・・・と、ここで紹介を終えてしまってもなんなので、著者の語り口がどんなものなのか、という気分を、以下で味わっていただくことにする。

たとえば、引用した「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」とはどういうことか。
著者はこんな感じに語る。

これはまさしく、現実から可能性へとむかう一歩に他ならないのだが、そのことを見て取るのはそれほど簡単ではない。少し準備運動をしてみよう。
 なんとなく眺め渡してみるならば、確かに世界はものたちにあふれている。机、コップ、時計、部屋の外に出ればポスト<中略>、これらのものたちの総体が、つまり世界ではないのか。
 そうではない。
なぜか。さしあたり極めて、簡単な理由がある。ここには、たとえば「赤い」がない。「寝ている」もない。しかし、あのポストは赤く、この猫は腹を出して寝ている。それが世界のあり方である。
 では物だけ、ではなく、「赤い」とか「寝ている」のような性質も集めてこよう。<中略>
いや、性質だけではまだ物足りない。もう一押ししよう。たとえば、机の上にコップがある。このとき、「…の上に…がある」というのは二つのものの関係である。

こうして、ものや性質や関係が複合して始めて構成されるのが「世界」である。
そして、私たちは、まず「世界」を把握し、それを「性質」やら「関係」やら「個体」といった対象に解体し、それを論理にしたがって再構成することで、「可能性」を手に入れるわけだ。

「もし、あれが、こういう性質ではなくて、ああいう性質だったら」とか、「こういう関係ではなく、ああいう関係だったら」と組み替えることが、「可能性」である。
で、実際の対象が持つ複雑な関係を直接変えることはできないから、言語という道具によって、思考の中で組み替えてみるのであって、そうやって作られた箱庭のようなものが「像」である・・・といった話が続くわけです。

像を作ることができなければ、現物を動かすしかないが、現実の世界でそんなことは不可能だから、そうなると

一切可能性の領域は開けてないことになるだろう。たとえばミミズはそうである。ミミズはただ現実のみに行き、現実の代わりとなる箱庭を作るようなことはしない。それゆえ、ただ現実の状況に反応して現実の行動を起こすだけでしかない。つまりミミズには可能性はない。猫などでも、少なくとも我が家の猫なんかはそうなのではないかと私は常々疑っている。しかし、私は違う。威張るようなことではないが。

以下、そうした「像」を作る要素たる「名」がどんな性質を持っているのかとか、まあ、そんな方向でウィトゲンシュタインが語りたかったことを語っていくわけです。

ま、冒頭の引用した『論考』そのものの、無味乾燥な命題の羅列(命題という言葉も、『論考』の用法に従えば厳密な意味があるが、ここではそんなのは無視!)よりは、なんか分かる・・ような気がする。
錯覚かもしれないが。

・・・とまあ、いろいろ語ってみたものの、この本はまだ、このブログの中の人について「語りえないもの」であったようである。それは「思考一般」の限界ではなくて、語り手の「思考力の限界」を示しているわけですが。

なお、著者の野矢氏は本書において、ウィトゲンシュタインについて精密に読解しつつ、その思想を乗り越えようとして取り組んでおり、その格闘の過程が垣間見えるのも、この本の魅力ではある。
そうした思いをこめた、本書の末尾の一説を、最後に引用しておくことにします。

語りきれぬものは、語り続けなければならない。