“帝国主義”の時代? ――『企業が「帝国化」する』松井博著

もうとにかく、国家というものを誰もがどんどん信用しなくなっていて、まあ、日本では民主党から政権がかわって「安倍自民党ならなんとかしてくれるんじゃないか?」という期待でとりあえず株価もあがって、多少明るい兆しが見えてきてはいるけれど、でも、アメリカの年末の「財政の壁」をめぐる攻防とか、ギリシャ、イタリアあたりのぐちゃぐちゃとか、中国の経済発展はしているのかもしれないけれど、なんかいろいろヤバそうだし、なんだかもう、先行きよく分らないことになっている。

一方で、日本企業はともかく、世界にはどんどん発展して世界経済も我々の生活も支配しつつある“勝ち組”な企業があって、日本企業もそ〜ゆ〜ところを目指さなきゃダメだとか、もう日本なんかにとどまっていてはだめで、そういうグローバルな企業を舞台に個人として戦えるようにならなきゃだめだとか、このままでいいのか甘えてるぜ日本人とか、いろんな議論が騒がしいわけだ。

で、世界を支配しつつある勝ち組企業を「私設帝国」ととらえ、その実態やら影響やらを、実際に「帝国の中枢」で働いていた著者がまとめたのが、この本なわけです。

著者は米国アップル本社でハードウエア製品の品質保証部のシニア・マネージャーの経験を持つ。本書の言葉を借りれば、アップルが「アップルがダメ会社から世界的企業に変わっていくさまを内部から見て」きた末に退職するわけだが、そこで著者が感じたのはこういうことだ。

アップルを辞めて気がついたこと、それはアップルのような企業の中枢に勤めるごく一部の人々が消費や生産の仕組みを創り、そうした仕組みの中で、選択の余地もなく消費せざるをえなかったり低賃金であくせくと働かざるを得なかったりする人がたくさんいることでした。

本書で主にとりあげているのは、アップル、エクソンモービルマクドナルドという3つの“帝国”なわけだが、これらに共通するのは“仕組み”によって高収益を支えているということ。

アップルについて言えば、iTuneを使い始めると、音楽を聴くのも、音源を管理するのも、アップル製品を通して・・・という形になるし、そもそも「音楽ソフト販売」というビジネスの「仕組み」すら変えてしまっている。
で、アップルというのは「調達側」としてもものすごい力をもっているから、部品サプライヤも委託生産先もアップルの意向に従って生きることになる。
この辺の“帝国”の特徴を、著者は次の3点の言葉でまとめている。

・ビジネスのあり方を変えてしまう
・顧客を「餌付け」する強力な仕組みを持つ。
・特定の業界の頂点に君臨し、巨大な影響力を持つ

マクドナルドやモービルも、あの手この手で“仕組み”をつくっていて、マクドナルドが安い牛肉を大量かつ安定的に調達する仕組みをつくるために、どんなエグいことをやっているかとか、
アメリカを自動車社会にするために石油会社とGMやファイヤストーンなどが共同して全米45都市の鉄道を買収して廃止してしまったとか、ナイジェリアやチャドなどの発展途上国で、なまじ石油で外貨が流入したために国が発展しないとか、
アメリカのファーストフード業界がどれだけ、アメリカの下層に暮らす人々の食生活を破壊しているか、とか、
いろいろな“帝国”の罪の部分は、それはそれで興味深い内容なのだけれど、まあ、本書ではちょっと内容が「薄い」感じがなくもないか。
それぞれのトピックが、論じだせばものすごく深くなるし。

で、困ったことに、そういう“帝国”の扱う商品って魅力的なんだ、これが。
このブログの中の人はほとんど使わないけれど、アップルの製品は「信者」と呼ばれる人々を生み出すほどに魅力的らしい。
(で、アップル製品は使わなくても、ITとかかわりを持つ以上、googleとか、“一世代前の帝国”たるマイクロソフトのお世話にならざるを得ない)
マクドナルドだって、まあ腹減っているときに食えば美味いし、とりあえず「低いコストでとりあえずカロリーとりたい」となれば、こんなに便利で安い食べ物は、そんなにない。
ま、エクソンモービルの扱う「石油」を「魅力的な商品」という言い方をするとちょっとおかしいが、今の世の中で、石油が必需品であることは確かだ。
まさか、もっと原子力発電を盛んにして石油の消費量減らすわけにも行かないし。

で、こういう“帝国”が猛威を振るうと何がおこるかというと、世の中で働く人は、「帝国の中枢で仕組みを創って運営していく人たち」と、「その他大勢」に、人々は二極化されていくわけですね。
当然、前者と後者の収入は段違い。
で、“帝国”はグローバルな存在だから、「その他大勢」の人がやる仕事だって、どんどん人件費の安いところにもっていってしまいますよ、と。

・・・とまあ、話は、以前このブログでも取り上げた『ワーク・シフト』はじめ、「これからの世界で働き方はこうなる」的な議論に重なってくる。

現実に「その他大勢」の仕事は、どんどんグローバルに動きだしていて、たとえば“iPhoneiPadの組み立て”なんていうのは、ほとんど中国で行われている・・・ということはご存知の方は多いとおもう。
で、そんな受託企業の一つ、中国のフォックスコンで自殺が多発したなんて事件もあって、現在、工場の周りには自殺防止用のネットが張られていて、日本の基準でいえば、完全な“ブラック企業”なのだけれど、極貧の中国の農村部の若者からみれば、ここで働くのは“憧れ”だったりするという現実もあるわけだ。

一方で、帝国の中枢で働く人たちは、どんな感じなのか?

「帝国」の頂点に位置する経営陣にはどのような能力が必要なのでしょうか? それは会社の明快なビジョンを創り、それを分りやすい言葉で発信できる能力です。<中略>
自社の社員だけではなく、顧客や株主などにも明快なメッセージを伝えていく必要があります。したがって、まず発信するに値する「明快なビジョン」を生み出すことができなければ始まりません。

中間管理職は基本的にアグレッシブで、出世に必死な人が多い傾向にあります。弁舌がたち仕事中毒で、精神的にも打たれ強いタイプの人たちです。ただ目の前の政治に夢中で「ビジョン」に欠けている人も多く、そこから上のポジションに上がっていける人は本当に一握りです。
 こうしたタイプの管理職は損得勘定や社内政治に非常に敏感で、どの人と組むべきなのか、どの人と距離を置くべきなのかを常に計っています。そして自分に災いが降りかかってくると察知したら、昨日の友人ですら平気で背中から刺し、蹴落とすような人々なのです。そんなバカな! と思うかもしれませんが、これがこのような「帝国」の中枢の「ゲームのルール」なのです。

・・・うーん、管理職、楽しくなさそう。。。

そんな帝国が支配しつつある世の中で、僕らはどうするべきなのか。
著者はこうした帝国の唯一の泣き所として「企業イメージ」を挙げる。

アップル、グーグル、マクドナルド、そして多数の食品会社などは、イメージづくりに大金をつぎ込んでおり、企業の信頼性や好感度の向上に余念がありません。もしもこういった企業イメージを大幅に損ねるような世論が形成されるようなことがあれば、帝国にとって重大な損害となり得るのです。

たしかに、これはそうですね。
で、ネット社会では、個人の放った情報が攻撃的な世論に雪だるま式に膨れ上がって、帝国に襲い掛かることは十分にありえることだ。
とすれば、消費者としては、情報を武器に、ある種「ゲリラ」的に帝国と戦っていくことも可能かもしれない。

で、もう一つ、「働く」という側から考えれば、こういうことが問いが生まれてくる。

いままでの時代は、良くも悪くも左右を見渡して他人と同じようにしていれば、どうにでもなる時代でした。<中略>
これからは超緒大企業の中枢に勤務するごく一部の層が高い所得を維持し、大多数の凡庸な人々は、彼らが構築したシステムの中で低賃金で使われる時代になっていくのです。

その回答は「創造性を養う」「専門的な技能を身に付ける」「就職後も勉強を続ける」「外国語を習得する」「コンピューターを『使う』」側になる」・・・。

いや、なかなか大変である。

しかし、あれだなあ。
なんっていうか、ああいうアメリカ発の帝国以外の“解”ってないんですかねえ?
ビジョンを示すリーダーと、その下で飽くなき権力闘争を繰り広げる人たちと、その他大勢の、使われる低所得者で構成された帝国に支配される未来。
20世紀が想像した「アンチ・ユートピア」な未来の帝国は、絶対的な権力者が支配する国家だったわけだけど。

そういえば、創造性を養う方法として、本書の中にこんな記述があった。

1つ目は古典と呼ばれる、時代の淘汰を経て残ってきた優れた文学作品、音楽、絵画といったものにたくさん触れていくことでしょう。こうして時代の荒波を生き抜いてきた文学や芸術の魂に訴えかける「何か」を持っています。

あ〜、なんか、とりあえず仕事のことなんぞ忘れて、小説でも読もうかなあ。
ま、この場合はつまり「現実逃避」なわけだが。

人は二つのシステムを持っている ――  『ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?』ダニエル・カールマン著

まあ、なんというか「アダム・スミスの『国富論』やフロイトの『夢判断』に匹敵する新世紀の古典」みたいな書評がでていたりすると、やっぱり読む前に構えてしまうわけだ。
しかも上下巻あわせて700ページ以上だし。

でも「著書はじめての一般書」ということで、決してとんでもなく難解というわけではなく、日常の小ネタに使えそうな話も満載だったりするのである、この本。

ファスト&スロー (上): あなたの意思はどのように決まるか?

ファスト&スロー (上): あなたの意思はどのように決まるか?

(↑上の画像や書名はamazonにリンクしています)

ものすごくざっくりまとめてしまえば、人間がどのように意思決定し、どのように間違えるのか、そのメカニズムを解明していこう、という内容なのだが、著者によれば、人間の脳には2つの思考モードがある。
 一つが「速い(ファスト)な思考」、もう一つが「遅い(スロー)思考」。
著者は前者を「システム1」、後者を「システム2」と名づける。

たとえば、「2×2=」という数式を見ると、とりあえず義務教育を終えた人であれば、なにかを意識することなく瞬間的に答えが分かるだろう。
(これが「7×6=」あたりになると、瞬間的に分からない人が芸能界近辺にはいるようだけれども)

だが、「34×12=」となると、まあ普通の人は瞬間的には分らないだろう。
しかも、これを暗算でやってください、ともなると、かなりじっくりと頭を使うことになるはずだ。
ソロバンの経験のある人だと、頭の中で珠を動かす映像が浮かぶらしいが。

このとき、前者で働いているのがシステム1、後者で働いているのがシステム2、なのだそうだ。
もっとも、この名称を最初に提案したのは、この本の著者ではなく、心理学者のスタノビッチとウエストという人なのだそうだが。

この二つのシステムは、それぞれ違った特徴を持っている。

・「システム1」は自動的に高速で働き、努力はまったく不要化、必要であってもわずかである。また、自分のほうからコントロールしている感覚は一切ない。
・「システム2」は、複雑な計算など頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる。システム2の働きは、代理、選択、集中などの主観的経験と関連づけられることが多い。

たとえば、システム1が働く領域には、「突然聞こえた音の方角を感知する」「すいた道路で車を運転する」「簡単な文章を理解する」「チェスでうまい差し手を思いつく(あなたがチェスの名人だとする)。」といった内容がある。

一方で「白髪の女性を探す」「自分の電話番号を誰かに教える」「あるページにaの文字が何回でてくるかを数える」「歩く速度をいつもより速いペースに保つ」などといった仕事は、システム2の働きだ。

つまり、ちょっと頭をつかうことと、瞬間的にほぼ無意識でできることの違い、と理解しても当たらず言えども遠からずだろう。

だから、人間が何かを考えたり、判断したり、意思決定したり、意見を表明したりするのは、すべて「システム2」の働きのはずである。
ところが、人間の意思や行動は、驚くほどに「システム1」に制約されているんでっせ・・・というのが、つまりこの本の最大のテーマといっていい。

システム1とシステム2は、私たちが目覚めているときはつねにオンになっている。システム1は自動的に働き、システム2は、通常は努力を低レベルに抑えた快適モードで作動している。このような状態では、システム2の能力のごく一部しか使われていない。システム1は印象、直感、意志、感触を絶えず生み出してはシステム2に供給する。システム2がゴーサインをだせば、印象や直感は確信に変わり、衝動は意思的な行動に変わる。万事とくに問題がない場合、つまりだいたいの場合は、システム1からおくられてきた材料をシステム2は無修正かわずかな修正を加えただけで受け入れる。そこであなたは、自分の印象はおおむね正しいと信じ、自分がいいと思うとおりに行動する。これでうまくいく ― だいたいは。

そう、だいたいはうまくいく。
そもそも、人生には物事を瞬時に判断しなければいけない場面が山ほどあるし、いちいちじっくり考えていたら、場合によっては車にはねられて死んでしまったりもするだろう。

だが、システム1は時にバイアスを生み出すこともあるし、また、複雑な問題を単純で分りやすく勝手に置き換えてしまったり、厳密な論理や統計からは外れた判断を、瞬間的に行ってしまうことがある。
それが、人間の「不合理」な行動を生み出してしまうのである。

「システム1・2」の働きを理解するために、著者は、有名な「ミュラー・リヤー錯視」の図を引用する。
ご存知の方も多いと思うが、これである。

横棒の部分の長さは一緒、という有名な錯視の図だが、もし「納得できない、上のほうが長いでしょ」という方は、定規を当てて長さを計っていただきたい。

・・・ね? 同じ長さでしょ?

この図をもともと知っていた人は、意識的に(システム2の力で)「ああ、あの錯視の図ね、上のほうが長いんでしょ?」と思っただろうし、実際今、定規で長さを計った方は「へ〜っ、本当に長さ一緒なんだ」と納得されたことと思う。

だがしかし、理屈として「長さは一緒」と分っていても、やっぱり長さが違うように見えてしまう。
これで何が言いたいのかというと、人間はシステム1が瞬間的にやりたいように判断することは、人間の意志では止められない、ということなのである。
錯視、というのは、いわゆる目の錯覚にとどまらず、思考にもおよぶ現象である、というのは、以前取り上げた「錯覚の科学」という本が、まさにその話だったわけだが、つまり「システム1」の勝手な振る舞いは、人間の行動の色々な分野に及ぶのである。

本書はまず、このあと、それぞれのシステムの特徴を詳しく見ていき、それが、人間の意思決定にどのように、影響していくかを色々な切り口で解明していくのだが、たとえば、システムの特性を知るのに、こんな問題が出てきたりする。
早押しクイズと思って、できるだけスピードをもって、以下の問題を解いていただきたい。

バットとボールは合わせて1ドル10セントです。
バットはボールより1ドル高いです。
では、ボールはいくらですか?

はい。


どうですか?
瞬間的に「10」という答えが頭に浮かびませんでしたか?

でも、ボールが10セントだとしたら、それより1ドル高いバットは1ドル10セント。
あわせて1ドル20セントになってしまうから、それでは間違い。
正解は、ボールは5セント(バットは1ドル5セント)である。

そして、正解を導き出せた人も、最初の瞬間には「10」という数字が浮かんだのではないだろうか?
つまり、これが「自分で制御できないシステム1の働き」なのである。

・・・と、まだまだ、本書の前半、いわば本論の「前提となる部分」しか紹介していないのだが、このあと、人間の意思決定において、この「システム1・2」たどのように影響していくかを、深く論じていく、と聞けば、興味沸いてきませんでしょうか?

著者は、もともと心理学者なのだが、ノーベル経済学賞の受賞者でもある行動経済学のパイオニア
経済学の世界では、ながらく、人間は「合理的な行動をする」という前提で物事が考えられてきたが、それに意義を唱え、人間の心理が経済行動にどのように影響をあたえるのかという視点を取り入れた「行動経済学」という分野を確立するのに、大きな功績のあった人だ。
・・・と説明すると、また小難しいか、つまりこういうことらしい。

同じ100万円でも、人によって価値がちがう。
たとえば、年収2000万の人にとっての100万円と、年収600万の人にとっての100万円、というように。
従来の経済学では、これを「同じ100万円」と扱っていたりした。
でも、それっておかしいよね。
じゃあ、その辺のことをきちんと理論的に扱うにはどうしたらいいの?・・・といった問題に取り組んでいるのである。

この場合、絶対的な「100万円」という価値とは別に、ある価値を計るときの「参照点」(この場合は、2000万が参照点の場合と、600万が参照点の場合、という話になる)が大きな影響を与える、とする、「プロスペクト理論」という話になるのだが、説明すると長くなるので省略。

まあ、ともかく、冒頭のシステム1、システム2の話で、あ、なんか面白そう、と思った人には読んでみる価値がある本です。

最後に一つだけ、著者自身がシステム1の呪縛からのがれていなかったという話が面白かったので、紹介しておきます。

著者は大学の先生として、複数の論述問題の答えが書かれた答案を採点するとき、かつては、一人の答案を全部採点して、次に二人目を・・・という具合に採点していたらしい。

ところが、これをまず全員の「問1」の答案を採点し、次に全員の「問2」を採点し・・・という具合に採点方法を変えたら、結果が変ってしまったのだという。

これはなぜなのか?

たとえば、ある人の答案を最初から最後まで採点するとする。
で、1問目がよくできていたとする。
すると、すでに2問目を採点するときには、「1問目が良くできていた」という情報がインプットされている。
そうすると、採点が引きずられてしまうのだ。

公平に採点しているつもりでも「1問目が良くできていて、2問目がいまひとつ」場合は、「2問目は、ちょっと調子がでてないのかな?」と反応し、「1問目がいまひとつで、2問目が良くてできている」場合は、「2問目はたまたまよくできた」と反応してしまうという、システム1の恐るべき作用なのだそうだ。

システム1は、やはり、こういう悪さをしてしまう特性を持っている。

「あの人は冷静で論理的な思考のできる人なのよね、無愛想で人付き合い悪いけど」
といわれた場合と、
「あの人は無愛想で人付き合いが悪いのよね、冷静で論理的な思考のできる人なのだけど」
といわれた場合では、実は与えられた情報は同じなのに、判断が異なってしまったりする。

医者が「この手術の成功率は90%です」といったときと、「この手術では失敗して死亡する確率が10%あります」といったときでは、明らかに「患者が手術を選択する確率」は違うそうだし。
(これも、与えられている情報は全く同じである)。


まあ、こういう類の話は、世間知に長けた人は経験的に分っていることではある。
驚異的な売上げを上げるセールスマンなんていう人は、もう「本能的に」この辺のカラクリを使いこなしていそうだ。
そして、そういうセールスマンに余計なものを買わされないようにするためには、システム1とシステム2の特性を知った上で、きちっとシステム2をフル稼働させる必要がありそうである。
・・・ってこの本、そんな卑近なレベルで語るべき内容ではないのだが。

写真は真実を写すのか ―― 『キャパの十字架』 沢木耕太郎著

「戦場カメラマン」というと今の日本では、ちょっと前までテレビによく出ていた“あの人”を思い浮かべてしまうのかもしれないけれど、世界で史上もっとも有名な戦場カメラマン、といえば、今年生誕100年を迎えた「ロバート・キャパ」ということになるのだろうか。

ロバート・キャパの名が世に出るきっかけとなった「崩れ落ちる兵士」という写真を、どこかで目にしたことがある人は多いと思う。
スペイン内戦で、共和国側の兵士が撃たれたその瞬間を捉えた傑作として、世界中に広まった写真だ。、
(見たことのない、または、どの写真か分らない人のために、wikipediaの画像へのリンクはこちら

この、写真をめぐる“真実”を、めぐるノンフィクションがこの本。
文芸春秋』の1月号に、この本の元になった原稿が掲載されたばかりだし、NHKでも2月に関連の番組が放映されたから、いろいろとご存知の方もいるかもしれないが。
(なお、一応「謎解き」系の本なので、ネタバレが困るという方は、以下お読みにならないようにお願いします)

キャパの十字架

キャパの十字架

(↑上の画像や写真はamazonにリンクしています)

キャパの「崩れ落ちる兵士」には、長らく「真贋論争」が続いてきた。
著者の言葉を借りれば、こういうことだ。

――あの写真は本当に撃たれたところを撮ったものだろうか?
それは、ひとりの戦場カメラマンがあのように見事に兵士が撃たれる瞬間を撮ることができるものだろうかという常識的な感覚に裏打ちされた疑問、違和感だった。

「崩れ落ちる兵士」には、ネガが残されていない。
そして、キャパ自身も、この写真については多くを語らなかった。
そのことが、ことの真相をますます分らなくしていったのである。

本書は、その「謎解き」が大部を占める。
写真そのものを緻密に検証するだけでなく、スペインの現地を訪ね歩き、実際の撮影された場所を突き止めたり、パリの図書館に、この写真の初出の雑誌を捜し歩いたり・・・と、多くの仮説と検証を重ねる歩みは、それはそれで、読み応えはある。

「この写真は、キャパが兵士にポーズをとってもらって撮影したものである」という説を発表したスペインの大学教授の話は、何か、この写真が「伝説化」してしまった理由の一端を示しているようで、興味深い。

「私の考えはスペインの代表的なメディアにはまったく無視されてしまいました。外国にはあなたのように何千キロも離れたところから尋ねてくれる人がいるのにね。キャパの写真がポーズを撮ってもらったものだなんていう説は、スペイン人には受け入れがたいものなんです。やはり、あの写真はピカソの『ゲルニカ』と並ぶ、スペイン戦争のイコンですから」
 イコン、聖なる画像だから、と。

著者の到達した結論は、まとめると、次のようなものだ。

この写真は、戦場で撃たれた兵士を撮ったものでなく、演習中の兵士が偶然の出来事(足を滑らせるなど)によって倒れ掛かった瞬間を捕らえたものであり、そして、この写真は、キャパ本人ではなく、このとき行動を共にしていた女性写真家・ゲルダ・タローである・・・。


というわけで、謎解きには一応の結論が出るわけだが、もちろん本書の内容はそれに尽きるものではない。
ロバート・キャパはどのような人物で、なぜ、この写真について嘘をついたのか。
ゲルダ・タローとはなにものなのか。

それについて、本書の内容を詳しく書くのは控えることにする。
このブログの中の人が下手にまとめるよりも、沢木耕太郎の文章で呼んでいただいたほうが、数億倍も面白いと思うので。

簡単に言えば、こういう話です。

ユダヤ人系ハンガリー人として生まれたエンドレ・フリードマンは、ドイツで写真を学んでいた。
そしてパリで写真家としての成功を目指しているうちに、一人の年上の女性と出会う。
女は、フリードマンの、いわばマネージメントの役割を引き受け、彼が成功するためのさまざまなアイデアを考える。
やがて二人は、共に戦場カメラマンとしての道を目指すようになり、ゲルダは、マネジメントという裏方ではなく、一人の写真家として頭角を現していく・・・。

ロバート・キャパというのは、無名の写真家エンドレ・フリードマンを売り出すために、アメリカ風に作られた「アーチスト名」であった。
同じくゲルダ・タローというのも、「作られた」名前であり、タローという姓は、当時パリにいた画家・岡本太郎からとったものだという。
活動の初期には、ゲルダがとった写真も、「ロバート・キャパ」名義で発表されていた。


そして、「ロバート・キャパ」は、「崩れ落ちた兵士」という一枚の写真により、世界的な名声を得るに至り、一方で、ゲルダ・タローは、だんだんとキャパの「恋人」から「同士」になり、自らの名前で写真を発表するようになり、世界初といっていい女性戦場カメラマンとしての評価が確立しようとしている最中、1937年7月、戦場での事故でなくなる。

つまり、これが、「キャパの十字架」である。

いくら自分が仕組んだことではなかったにしろ、撃たれてもいない兵士を撃たれたかのごとく扱うことを黙って受け入れ、もしかしたら自分で撮りもしない写真を撮ったとすることまでを受け入れてしまっていたかもしれないのだ。
 それは世界中の人々を欺いているということにならないか?
 キャパが背負った負債は、フォト・ジャーナリストとして有名になればなるほど、大きくなっていったはずである。

キャパは、この負債をなんとか返済しようとすべく、戦場に赴き、数々の傑作写真をものにする。
史上最大の作戦」といわれた、ノルマンディー上陸作戦(第二次大戦での、連合軍によるヨーロッパ上陸作戦)の最前線を写真に収めることができたのは、キャパ一人だった。

戦後のキャパは「戦争写真家/ただいま失業中」という自嘲的な名刺を刷った、などと友人に話しながら、写真家として活動した。
しかし、その作品は、戦時中のものに比べて、明らかに質が落ちる、と、沢木耕太郎はいう。
そして、1954年、インドシナの戦場にカメラマンとして赴き、地雷を踏んで亡くなる。

ここで、なぜ、キャパの写真が「銃に撃たれて亡くなる瞬間の兵士」として流布されてしまったのか、本書にかかれていない部分も含めて、少し考察を。

我々は、いつしかデジカメになれてしまって、写真というのは、撮ったその場で確かめられるものという感覚になれてしまっているけれど、当時のカメラは当然、フィルムを使ったものであった。
だから、写真をとったあと「現像」という作業が必要だった。
そして、キャパは、戦場では自分で現像をすることは少なく、スペイン内戦の当時も、撮ったフィルムをそのままパリに送っていたという。
だから、自分がどんな写真を撮ったのか、自分の目で正確には確認していない。

だから、パリで現像された写真をみた編集者が、この写真を「銃で撃たれて崩れ落ちる兵士」という触れ込みで、雑誌に載せた・・・というのが、おそらく真相であろうと思われる。

20代前半の青年が、自分の意図しないところで、このようなウソに巻き込まれ、しかもそれが彼にとんでもない名声をもたらした。
ウソの源である写真は、すでにいろいろな意味を持って世界に流通し始め、どんどん“伝説”と化していく。
その十字架の重さがいかほどのものであったのか、僕等には想像するしかないけれど、ただ、それなりに浮名を流していた(その相手には、世界的な女優イングリット・バーグマンがいたりもした)にも関わらず、ゲルダへ結婚を申し込んで断られて以降、結局、家庭をもたなかったことや、平時の写真家に飽き足らず、インドシナの戦場に赴いてしまう行動に、その心情の一端が表れている気はする。

まあ、現代であれば、こんなことがあったら、その写真家はネットで袋叩きにあって社会的に抹殺されるんじゃないかとも思いますけれどもね。
そもそも、この写真、「どこで撮られたものなのか」も正確には伝わっていなかったらしいし。
現代では考えられないこと、ではある。
多分、今だったら2ちゃんねるあたりで、瞬く間に撮影された場所が特定されたりしているはずである。


なお、本書には、キャパが創設した写真家集団「マグナム」から借用した写真がいくつも収められているのだが、その際、マグナム東京支社から「マグナムは必ずしも沢木氏の本の内容を認めているわけではない」との一文を入れて欲しいという申し入れがあったそうだ。
まあ、そりゃそうですわね。

あと、あとがきに「現に私も、NHKの番組制作スタッフと、最新鋭増技術を使っての検証作業を行いつつあるところだ」という一文があるが、それが、2月に放送されたNHKスペシャルである。
実際、番組では、コンピュータによる画像解析などを駆使して、沢木説を裏付けていたのだが、番組だけ見ると、なんだか沢木耕太郎が足で稼いだことを裏付けている、というより、NHKの技術で初めて真実が明らかになった、といわんばかりの構成になっていた。
う〜ん、テレビ的演出? 
まあ、沢木耕太郎くらいになれば、NHKにも物申せるだろうから、あれはあれでよし、と判断されているのでしょうが。


なお、キャパとゲルダについては、朝日新聞横浜総局記者の伊丹和弘さんという方が簡単にまとめられていたので、ご参考まで。
https://www.facebook.com/Kazuhiro.Itami.Journal/posts/335581959879999

“万歳”にみる“伝統”の虚構性と変容について ― 『ミカドの肖像』(猪瀬直樹著)をてがかりに

万歳三唱という習慣があって、たとえば現代では政治家の人なんかがお好きで、衆議院の解散が宣言されたときとか、当選したときなんかによくやっている。

ニュースなんかを見ていると、たとえば韓国なんかでも「万歳(マンセー)」を叫んでたりするわけで、なにもしらなければ「ああ、これは東アジアのあちらこちらにある習慣なのかな?」とか思ってしまう人もいたりするわけだ。

もちろん、この「万歳」という言葉は、日本の戦争の歴史と深く結びついているものであって、いろいろと難しい議論になりがちなわけだけれど、そもそも「万歳三唱」っていつごろから、どういうふうに始まったのだろう? という話が、この本に出てくる。

ミカドの肖像 (小学館文庫)

ミカドの肖像 (小学館文庫)

(↑上の画像や写真はamazonにリンクしています)

著者は、あの猪瀬氏、つまり現東京都知事だが、この本は猪瀬氏のいわゆる「出世作」である。
「ミカド=天皇」にまつわるもろもろの隠されたエピソード、たとえば、西武グループによるプリンスホテル軽井沢の開発とか、日本におけるゴルフの普及と天皇との関係とか、日本ではあまり知られていないオペレッタ「ミカド」の欧米における影響力とか、明治天皇の「御真影」が、実はお雇い外国人であるイタリア人版画家によって作られた版画だったとか、日本人/日本社会の間に隠されている天皇制という存在の幅の広さと、私たちが漠然と思っているのとは異なる実相を丹念に暴きだした労作だ。

どちらかというと、多様な方向性から対象を照らし出すことを目指したような本なので、一本の真っ直ぐなロジックを貫き通した構成にはなっておらず、「こういう内容で、つまりこういうことを言ってるんですよ」と要約して紹介することは難しい。
だが、とにかく歴史やノンフィクションが好きな方であれば、無類に面白本であることは保証する。
文庫版で解説含めると全886頁というボリュームに、それほど怯える必要はない。
元が週刊誌連載ということもあって、割合読みやすいし。

で、この本の後半に、「万歳」という習慣の起源について、こんなことが書かれている。

ハーバード大学講師板坂元によると「万歳三唱」のあの独特のスタイルは日本の伝統ではなく明治維新後に欧米の習慣をまねることからうまれたものだという。欧米のスリー・チアーズが元であり、チア(cheer)はチアガールのチアで、英米では「ヒップ・ヒップ・フレー」という掛け声を三回繰り返した。

当時の新聞記事を調べると「(憲法発布の)祝典に『万歳』の発生の評議、西洋流になんと趣向したいもの」(中外商業、明治22年2月8日付)という見出しがあり、「彼の英国に於て、ホウレー、ホウレー、ホウレー(筆者注――フレー、フレーのことか)と称して、陛下の万歳を祝するがごとく、何とか発声して奉祝の意を表」しているのを参考にすべく協議していると書かれているので、スリー・チアーズ説は肯定してよいだろう。<中略>
日本人の伝統的儀式スタイルと思われていた万歳三唱も、「御真影」と同じように“輸入品”だったのである。

万歳、という言葉自体は古くからあって、万歳=一万年=永遠ということから、長寿を祝福する意味で使われていたらしいが、現在我々が知るような「万歳三唱」のスタイルは、明治憲法を発布するころに、イギリスのをまねして作られたものだということである。
万世一系、2600年を越えるという伝統(主催者側発表)からみると、それほど歴史の古いものではない。

さて、そうして生み出された「万歳三唱」は、日本による統治を経ることで、韓国にも伝わる習俗となり、そして今、「日本帝国主義」を批判する韓国の人たちが、「独島万歳」を叫んでいたりする。
叫んでいる人たちが、どの程度、そのことを意識しているかは分らないが。
(というより、多分、意識はしていないのだろうが)。

本書には、たとえば「富士山、松、海」で象徴されるような「日本的な景色」というのも、明治時代に絵葉書が発売されることによって、初めて定着したものであることとか、その他いろいろなエピソードが出てくる。

我々が「日本の伝統」と考えているものの中で、明治時代に急ごしらえで作られたものは、想像以上に多い。
それらは、開国と明治維新を経て、「欧米と同じような、国民国家を作らなければいけない」という必要性にせまられるなかで、次々と生み出されたものだろう。
これは本書に出てくる例ではないし、挙げると話がまた微妙になるかもしれないが、「国旗としての日の丸」「君が代のメロディー」なんてのも、その一つだろう。
古典落語にも歌舞伎にも、祇園祭にも、「日の丸」も「君が代」もでてはこない。
国旗、国歌というのがそもそも、西洋が生んだ「国民国家」、つまり国家というのは国境線で区切られた一つの領土内の住民を構成員として統合するものである、という理念のもとに、その統合のためのツールとして生まれた要素が強いものなのだろう。


世界は国境線で区切られていて、それぞれに国民がいて、それぞれに国旗や国家があって・・・という状態を、僕等は当たり前と思っているけれど、実はそれは西洋で「国民国家」「主権国家」という制度が生まれてから作られたものだ。
そして、とくに、そういう制度を西洋から「輸入」せざるをえなかった国々(明治時代の日本も、もちろんそうだ)では、急ごしらえで、そうした「国家」を成立させるためのツールを整備する必要があった。
それは、憲法とか統治機構とか国境線とか、そういう「ハード」の部分だけではなくて、国民を心情的に統合するための「ソフト」の部分も含まれるものであっただろう。

つまり、万歳三唱というのも、そういうソフトだったのだ。おそらくは。
つまり仮装された虚構の伝統、ということもできる。

そして、それは、当初に作り出された意図を超えて伝播していく。
だから「日本帝国主義」に抗議する人たちが、「大日本帝国」を統合するために作られたはずの動作をするようなことにもなっていく。
新たに「国民国家」の団結のツールとして、当初の意味を剥奪された上で再利用されていくわけだ。


こうした「繰り返し」はいつまで続くのだろう?と、ふと思うことがある。
ある国の伝統、と呼ばれているものが、じつは、結構な近代になってから、意図的に作られたものであるのならば、それを「伝統」というだけの理由で守り続ける理由もない、ということにはなる。
もちろん守るべきもの、あるいは、自然と残っていくもの、というものはあるわけだけれども。

・・・というわけで、いつもとちょっと違うスタイルのエントリーになりましたね。
タグの最初が「雑記」となっているのは、つまりそういうことで。

経済学ってやっぱりまだ発展途上なんだと思う ― 『デフレーション―“日本の慢性病”の全貌を解明する』 吉川洋 著

それにしても、やっぱり、この2ヶ月ほどの日経平均の上昇が「アベノミクスによる日本経済復活の序章」なのか、それとも「なんとなく安倍さんのお陰で景気もよくなりそう」という期待値に基づいた「ミニバブル」なのかどうか、というのは、よく分らない。
メディアや専門家の意見も、分かれているように見える。

そこで、前回のエントリーでは、「アベノミクス万歳」な「リフレ派」の本を取り上げてみたわけだが、今回は、違った立場の本を読んでみたわけだ。

デフレーション―“日本の慢性病

デフレーション―“日本の慢性病"の全貌を解明する

(↑上の画像や写真はamazonにリンクしています)
著者は東京大学大学院経済学研究科の教授・・・だからといって、この本はあくまでも一般向けの概説書だし、必要以上に恐れる必要はない。
必要はないけれど、でもやっぱり経済学や経済用語にアレルギーがあると、読み通すのはちょっとつらいかも知れない。
ケインジアン」とか「貨幣数量説」とか「期待利子率」とか「ゼロ金利」とか「流動性のわな」とか。
あと、数式つかったクルーグマン・モデルの批判的解説とかもでてくるし。
クルーグマン・モデルとは、米の経済学者ポール・クルーグマンの作ったモデルで、ゼロ金利下でもインフレ・ターゲティングとマネーサプライの増加によりデフレから脱却できる=リフレ派の主張に理論的根拠を与えている。そういえば、クルーグマンアベノミクスを絶賛、という話はニュースにもなっていましたが)。

でも、著者もその辺は配慮して、「モデルの詳細、経済学の細かい議論に関心のない読者は3節まで飛ばしていただいても結構である」といってくれてたりするので、そこは有難く飛ばさせていただいて、理解できるところだけ読んでも、それなりに意義のある本だと思う。
というか、クルーグマン・モデルの詳細な説明とか、このブログの中の人には求めないように。

さて、本書はまず、「デフレの何が問題なのか」を論じた後、日本の「失われた20年」の経済を「デフレ」という観点から振り返り、その後、経済学の世界でデフレがどのように論じられてきたのかを検討し、著者なりの見解をのべる、という構成をとる。

では、デフレの何が問題なのか?

デフレとはモノの値段が下がることだから、庶民感情としては「悪いことじゃないんじゃないか?」という気がしないでもないし、仮に給料が下がっても、それと同じだけ物価も下がれば、「実質」の生活水準は変わらないということになる。
実際、90年代に「価格破壊」などといわれて、いろいろなものの値段が下がり始めたころには、「ありがたい」と思っていた人も多かったと記憶する。

「教科書的」にいえば、デフレの害毒は次のようなことになる。
まずは、名目金利が一定とすれば、「実質金利」が上昇する、ということ。
100万借金をしたとして、デフレでモノの値段も給料も下がっていけば、その100万の借金の「価値」は、実質、もっと高くなってしまうわけだ。
給料が上がることを見越してローン組んだら、どんどん給料下がって大変なことになった、というのも、まあ、そういうことの延長線上だろう。

そして、デフレと不良債権が重なると、経済は悪循環を始める。
著者はここで、20世紀前半の経済学者、フィッシャーの議論を引きながら、次のようにいう。

フィッシャーのいう二つの条件とは、(1)好況期に企業が過大な債務を負うこと、そして(2)その後にやってくる不況期に経済がデフレになることである。この二つの条件が重なると、経済は悪循環に陥ってしまう。
 デフレにより負債の実質的負担が大きくなると、企業は倒産・破綻に追いやられてしまう。その結果、失業率の上昇、投資の減少などを通して実態経済の悪化が深まり、物価の下落すなわちデフレはさらにひどくなる。このようなデフレと負債の開く瞬間こそは資本主義にとって最大の脅威だ、とフィッシャーや主張した

デフレそれ自体というよりも、こういった条件が重なることが問題なのであって、そして、バブル崩壊後の日本経済は、まさに、こういう状況に陥った、ということのようである。

辞任を表明した日銀の白川総裁は、デフレについて以下のように見ていた。

「物価下落は景気悪化の原因とみる」立場と、「物価下落は景気悪化の結果であり、そのかぎりにおいて望ましくはないが、物価下落が原因となって景気悪化が生じているとは考えていない」立場がある、と整理している。<中略>
日本銀行は再三第二の立場、すなわち「デフレは景気悪化の原因ではなく結果である」とする見解を表明してきた。

そして、著者に言わせると、

こうした二分法だけだと、不良債権問題への視点が抜け落ちてしまう。フィッシャーが正しく指摘したとおり、デフレは不良債権問題と組み合わさることによってマクロ経済への脅威となる。

ということである。

こうした前提を置いた上で、本書では経済学的な議論が続くのだが、著者の基本的な立場は「デフレは長期停滞の原因ではなく、結果である」(ただし、デフレがまた実体経済にも影響を与えるのは事実ではあるが)、ということと「貨幣数量説=デフレというのは通貨供給量の問題であって、じゃんじゃん通貨を流通させればデフレから脱却できる、というのは間違いである」ということである。

では、先進国のなかで、唯一日本でデフレが続いているのはなぜなのか?
途中の経済学的な議論は省略して、結論に急いで見ると、著者は、「名目賃金」に注目する。
日本の名目賃金は、失われた20年の間に低下を続けた。
その理由の一端は、日本の雇用慣行の変化にある、ということである。

かつて「終身雇用」といわれた日本の大企業における「雇用」も根本的に変わった。本格的なリストラが行われる中、「雇用か賃金化」という選択に直面した労働者は、名目賃金の低下を受け入れた。名目賃金は「デフレ期待」によって下がったのではない。1990年代後半、大企業を中心に、高度経済成長期に確立された旧来の雇用システムが崩壊したことにより、名目賃金は下がり始めたのである。そして、名目賃金の低下がデフレを定着させた

欧米と比較すると、日本の名目賃金は、景気や企業業績を反映して伸縮的に動く傾向にあるのだそうだ。その替わり、就業者数の変化は少ない。この辺は、不景気と入っても欧米に比べれば失業率が低い、といったところでも、なんとなく感じ取れるところではある。

景気が悪くなったときに、賃金より雇用を守る。
そのためにじりじりとみんなの給料が下がり、その結果全体がデフレ傾向になって、それがやがて経済全体を、さらに停滞に導いていく。
これが事実とすれば、いわゆる「合成の誤謬」が存在しているようである。

なお、「人口が減少したこと」にデフレの原因を求める説については、著者は次のように否定している。

労働人口の減少が経済成長にマイナスの影響を与えるのは事実だ。ただし、その影響は「数量的」には一部(あるいは多く?)の人が想像するよりはるかに小さい。
 先進国の経済成長は、働き手の頭数で決まるのではなく、「一人当たりの所得」の上昇を通して成長してきたのである。<中略>
「生産年齢人口」もまた、「人口」と同じく経済成長にとって主役とはいえない。<中略>
人口の減少がそれ自体として経済・社会的問題であることは、その通りだ。しかしそれは、1990年代から始まった日本経済の長期停滞の原因ではない。ましてや、「デフレの正体」ではない。

そして、デフレそれ自体は「景気停滞の結果」ではあるけれど、それがさらに経済にあたえた悪影響として、著者は「デフレ・バイアス」について指摘する。

日本の企業は、物価の下落が続くなかで、製品の価格を下げるための「プロセス・イノベーション」(少しでもモノを安く作って売るために、プロセスを改善する)に注力してきた。

その結果、日本の経済の将来にとってより大きな役割を果たす「プロダクト・イノベーション」がいつしかおろそかになってしまったのではないだろうか。たとえば、流通業にとって真に重要なのは、高齢化社会にふさわしい新しい流通を確立すべく「第二次流通革命」を行うことだ。しかし、デフレは、ゼロ・サムの下での「1円競争」に企業を追い込んでしまった。
 経済の成長にとって最も重要なのは、新しいモノやサービスを生み出す需要創出型のイノベーションである。<中略>
デフレは、日本企業のイノベーションに対して、そうした「プロダクトイノベーション」からコストカットのための「プロセスイノベーション」へと仕向けるバイアスを生み出した。これこそが、15年のデフレが日本経済に及ぼした最大の害悪なのではないだろうか

というわけで、結局のところ、金融政策によって貨幣流通量を潤沢にすれば問題は解決する、といったほど、単純ではないし、結局のところ、需要を創出するようなイノベーションがなければ経済は回復しない、というのが著者の見方ということである(って、ものすごい大雑把なまとめだが。一方で、著者自信が明確ですっきりした回答を与えきっていないのも事実である)。

そして、個人的には「経済停滞の原因は日銀の政策の失敗なのであって、そこを改めれば、解決する」という分りやすい説明よりも、こちらのほうがしっくりとくる。
なんというか、喩えは悪いかもしれないが、「日銀が全て悪い」という議論は、「○○人が全て悪い」みたいな陰謀論的発想のギリギリ一歩手前、という感じもするし。

なお、このブログでは、途中の「経済学的議論」は全くはしょってしまったけれど、デフレをめぐる経済学の議論や学説史、さらに、その混迷ぶりを「ケインジアン」の立場から批判的に検討する内容になっている。
一方で、著者自身も、明快な「正解」を提示しているとも言い切れない印象を受ける(って随分上から目線だが)。
つまり、まだまだ経済学は、本当に経済を解明できるだけの力をもっていない、ということなのだろう。
まあ、その辺、きちっと論じられるほどの知識も、このブログの中の人には、ないわけだけれど、興味と知識がある人はぜひ、詳細に読み込んで論じて欲しいなあ、と思う。

最後に、ちょっとだけ、気がついたことが一つ。
途中で、次のような文章が出てくる。

「ゼロ金利」下では、各銀行は必要が生じたときは保有している短期再建の流動資産をほとんど「資本損失」あるいは「売却損」(capital loss)をこうむることなく売却して日銀当座預金に変えることができるのであるから

短期再建? これ、多分「短期債権」ですよね?
まあ、漢字の変換なんて、このブログもしょっちゅうやらかしているので、人様のミスを指摘するのもなんなんだが。

ちなみに手元にあるのは第2版。どうやら初版がでた後でも気づかなかったものらしい。

 

アベノミクスで給料はあがるのか ― 『日本人はなぜ貧乏になったか?』村上尚己著

日経のサイトによれば、先週金曜日の日経平均株価終値は1万1,153円16銭、NY外為市場の円ドル相場は1ドル=92円65〜75銭で取引を終えたのだそうな。
さらに調べてみると、昨年12月14日、すなわち、例の総選挙直前の数値をみると、日経平均終値が9,737円56銭、円ドル相場は83円47銭というから、とりあえず、安倍政権が動き出し、「アベノミクス」のおかげで、日本の経済は少しでも望ましいほうに動き始めた・・・と、いろんな人が思っているらしい。

いや、実際に動き出しているのかはよく分らない。っていうか、これらの数値はあくまでも「期待値」だろう。
まだ「こういうことやりまっせ」といって少しずつ動き始めただけの段階で、たとえば「実際、経済がこれだけ成長しましたぜ」なんて数字はそんな出てきちゃいないわけだし。

経済評論家(?)の某M永卓郎氏が、某サイトで

野田佳彦前総理が解散を決めて、安倍総理の誕生が確実になってからたった2カ月で、対ドル為替は10円円安になり、日経平均株価は2000円以上値上がりした。アベノミクスが正しいことの何よりの証明だ。

と書いていたけれど、こういうのを「早計」というんじゃないかと思う。
せいぜい、「アベノミクスには期待できると多くの人が考えていることの証明」ぐらいじゃないのだろうか。
・・・って某サイトといいながら、リンク張ってしまうが(笑)
アベノミクス成功のため日銀をリフレ派で固めよ WEB論座

アベノミクス」というのは、「大胆な金融政策・機動的な財政政策・民間投資」の三本の矢( © 毛利元就)からなるのだそうで、このうち「大胆な金融政策」というのはつまり、リフレ政策(リフレーション=通貨再膨張 デフレ脱却のために金融政策で意図的にインフレ起こしましょうという政策)ということになる。

で、そんな「リフレ派」の立場から、簡潔に論点をまとめたのがこの本。

日本人はなぜ貧乏になったか?

日本人はなぜ貧乏になったか?

(↑上の画像や写真はamazonにリンクしています)

いま、手元にある本書の帯には「『アベノミクス』で10年後の給料が、1.4倍になる!!」「日本人を貧乏にする『21のウソ』を見抜け」などと、なかなかに勇ましいことが書いてある。
そして、内容としては、著者が言うところの21の「通説」を順番に取り上げ、それに対する「真相」を解説していくわけだが、それはたとえば、こんな感じだ。

通説1 景気の良し悪しと個人の給料は、別次元の話
→真相 否。日本人の給料は、日本の景気と一緒に下がっている。

通説2 かつての「がんばり」を忘れたから、日本人は没落した
→真相 否。「努力神話」を捨てなければ景気は回復しない。

通説5 人口が減少する日本が成長できないのは、構造的な宿命だ
→真相 否。日本経済には成長できる自力が十分にある。

通説9 日本のデフレは、安価な中国製品が流入したせいだ。
→真相 否。それならアメリカや韓国はなぜデフレではないのか。

通説11 日銀の金融政策では、物価を動かすことなどできない
→真相 否。過去の金融緩和では日銀がいつもブレーキを踏んできた。

通説15 日本は大規模な金融緩和をしたが、ほとんど効果がなかった
→真相 否。緩和の金額が決定的に足りない。アメリカを見よ。

とまあ、こういった具合で、よくマスコミなどで議論される論点をいろいろと取り上げ、数値データや経済理論の解説を加えながら「通説」を否定していく、というのが本書のスタイルである。
個別の解説は省略するが、全体として、決して経済学の専門書というわけではなく、一般向けに分りやすく書かれているので、とりあえず、「リフレ派」と呼ばれる人たちの主張を概観するには、よいのじゃないかと感じた。
そして、なにより「とにかくこれまでの日銀の政策がダメダメだ!」というのが著者の主張のようである。
その当否を判断できるほど、このブログの中の人には経済学の専門知識がないけれど、実証的なデータと、理論的説明を読んでいると、説得される気になってくる。
と同時に、「仮にその通りだとしたら、なんでそこまで日銀ダメなんですかね?」という疑問も沸くわけだが。

失われた20年の発端であるバブルの崩壊は、当時の高騰する土地価格を抑えるために、政策的に金融を引き締めたところから始まる。
で、本書によれば、そのフォローに失敗して以降、日銀は連敗続きのようである。

一方で、アメリカでは日本のバブル崩壊を研究したバーナンキFRB議長の手によって、リーマンショック後の危機をうまく乗り切った実績もある。
いまこそ日本もアベノミクス=そういう政策を取るべきである! と、やや乱暴なまとめ方だが、著者の考えはそういうことだろう。

取り上げられる通説の中には、こんなものもある。
通説8 日本のデフレ、原因は現役世代の人口減少
→ 否。生産年齢の人口減少とデフレの同時発生は、唯一日本だけ。

お気づきの方もいるかもしれないが、これ、ベストセラーになった藻谷浩介氏の著書『デフレの正体 経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)』への反論である。

藻谷説を一言で言えば、「日本のデフレは、現役世代(専門的な言葉で言えば生産年齢人口)の減少によってもたらされている」という説である。
 しかし、生産年齢人口が減少するとデフレが起こるという説は、果たして正しい見立てなのだろうか? 僕はそうは考えていない。
 なぜなら、実は、世界には生産年齢人口が減っている国が日本以外にも数多くあるが、その中で、デフレに陥ってしまっている国は、日本以外に一つもないからである。

本書の中には、世界銀行の2000〜2010年のデータを元に、生産年齢人口減少率が高い国と、そのインフレ率が表でまとめられている。
生産年齢人口の減少率はトップがブルガリアと日本の-7%で、以下ウクライナラトビア、ドイツ、ルーマニアリトアニアハンガリーエストニアセルビアと続く。

たしかに、このなかでデフレの国はなく、セルビアなんかはインフレ率が24.3%だったりする。
そうなると、確かに、藻谷説は、ちと怪しい、ということになるだろう。

ただ、「複合要因」の一つなのではないのかなあ?という気はしないでもない。
日本のように国家の規模が比較的大きめで、一つの国家の独自の市場を形成しうる国と、他国と国境でつながって互いに密接な経済交流がありそうな国々だと、「単一の国のなかでの生産年齢人口減少が与える影響」もまた、話が違ってくるんじゃないか、という気もするし。
そう、なんとなく、この本、日本市場を凄く「単一」に見すぎていて、海外との相互の関係性が(外国為替という視点を除くと)、やや希薄なんじゃないかな?という印象を持った。

金融理論のテクニカルなところを少し離れたところで、論点として興味深いのは、次の通説と反論だろうか
通説19 『右肩上がりの日本』は幻想。低成長の成熟社会を目指せ。
→反論 「脱成長」の先に待っているのは、残酷な世界

とくに3.11以降、経済成長を追い求めるのではなく、低成長ないし脱成長し、皆が幸せに暮らせる社会を目指そう、という主張がよく聞かれるようになったが、著者は真っ向からこれに反対する。

たとえば、仮に「脱成長」が実際に達成されてしまった場合、日本にはどのような未来が待っているのか? 本当に競争のない、皆が温かく分かち合う社会が待っているのか? 本当に残念ながら、そんなことは一切ないというのが現実なのだ。
それはなぜか? 「脱成長」とは、「経済成長を止めること」「ゼロ成長・マイナス成長を続けること」であり、いままさに日本が陥っているこの「不況をさらに加速させること」だからだ。<中略>
その未来にあるのは、「不況が進展し、企業はさらなる価格引下げ競争を強いられ、そして多くの国民は、減り続ける職を求めて、他を蹴落とす悲惨な社会」である。<中略>
だから、「競争をやめて、皆が分かち合う温かい社会」を希求する人は、社会全体が成長を止めることを決して放置してはいけないのだ。「脱成長」の先にあるものは、「凄惨な奪い合い社会」でしかないのだから。

あとがきによれば、著者は、丁度バブルが崩壊するころに社会に出たエコノミストで、「失われた20年」の被害にあったのは、著者から以降の若い世代である、という思いを強く持っているようである。

日本銀行の「政策判断ミス」が繰り返され、デフレが続き、日本人の給料が下がり生活が貧しくなる一方であることは、本書で説明したとおりだ。
そして、この「貧困化」の被害に最もあっているのは<中略>若い世代なのだ。デフレが長引き、豊かな生活を送ることができる職場がなかなか提供されない。普通の会社に勤めるだけでは給料はほとんど上がらず、生活に豊かさを感じることができない20〜30年代の若年世代なのである。

そうした状況をなんとかしたい、という著者の熱意が強く伝わる本ではあった。

で、どうしても物事を斜めに見てしまいがちなこのブログの中の人としては、著者とは足元にも及ばない経済/金融の知識しかない立場から、勝手なことを言わせてもらえば、なんというか「きれいに説明されすぎている」という感が拭えない。
「デフレの原因は日銀の政策が間違っているからである! 政策を変えれば、解決する!」という言い切りを、鮮やかにデータと共に見せ付けられると、もうちょっと、経済って「予想通りに不合理」( © ダン・アリエリー)なんじゃないか、という気もしてくるし。

とはいえ、もちろん、それで成功してくれるのなら、本当に有難いことだと思うわけではあるけれども。

プロフェッショナリズムということ ― 『たくらむ技術』 加地倫三著

この本の著者名をみて、ピンとこられた人は、それなりに地上波テレビのバラエティ番組をご覧になっている人だろう。

その、あのテレ朝の加持プロデューサーである。
年末の『アメトーーク! 5時間スペシャル』 をごらんになっていれば、この人が最終盤で江頭2:50に絡まれていたシーンを思い出していただける事と思う。

たくらむ技術 (新潮新書)

たくらむ技術 (新潮新書)

(↑上の画像や書名はamazonにリンクしています)

アメトーークという番組がなぜ人気があるのかといえば、いろいろな切り口から語れるのだろうが、本書をよむと、極めて誠実かつ力をいれて作られていることが、その理由の一つなのだろうなあと思えてくる。
たとえば。

スタジオバラエティ番組では、収録時に複数のカメラを切り替えていくため、スイッチング(カット割)を同時進行で行います。たとえば2時間収録していれば、手物に残る素材も2時間分になります。<中略>
 でも、僕の番組では、全てのカメラで映像を全部撮っておいて、撮影が終わった後で編集することにしています。出演者たちの細かい笑いまで絶対に撮りこぼさないためです。
 ただし、通常9台のカメラで収録しているので、「収録時間」の9倍が「撮影VTR時間」になります。仮に2時間の収録だとすると、18時間分のVTRが残ることになる。これを1時間(実際は正味46分55秒)の番組に編集していくのは、やはり大変な作業になります。<中略>「アメトーーク!」は1回でおよそ1200カット(ちなみに「ロンドンハーツ」のばあい、およそ1500〜1800カット)。2秒半に1回、カットを変える計算です

あるエピソードが披露されてスタジオ内が大爆笑に包まれ、あまりの面白さに笑いが10秒間続いたとします、ただし、そのうち最初の3秒が大爆笑で、残り7秒が余韻だった。
 こういう時に、作り手側はついつい残りの7秒の部分をカットしてしまうのです。ここでカットしておけば、時間がストックできて、他の部分でその7秒を使うことができるからです。
 ところが、これは不正解。「7秒の余韻がカットされる」ということは、つまり「テレビの前にいる視聴者が、笑い終わって落ち着く時間がカットされる」ということだからです。自分の笑いが収まっていないと、その後に続くトークに集中できません。<中略>
視聴者の気持ち、生理を無視してしまう編集とはこういうことです。自分がカットしやすいところでカットすると、笑いのために必要な間を殺すことにつながるのです。
 よく考えて編集すれば、他にカットできる部分はたくさんあります。作る側のエゴで笑いを減らしてしまってはいけない。

本書は全体に、ものすごく考え抜かれてまとめられたものというよりは、著者が次々と思うところを語っているような印象がある(実際、語ったものを口述筆記した可能性はかなり高いと思う。推測だが)。
だから、なんというか、こちらとしても整理して要約するのはちょっと難しい。
なので、以下、章のタイトルや小見出しから、いくつかをあげることにする。それだけでも、なんとなく、どんなことが書いてあるかは想像していただけると思う。

トレンドに背を向ける/「逆に」を考える/パクリはクセになる/二番煎じは本質を見失う/会議は煮詰まったらすぐやめる/反省会こそ明るく/計算だけでは100点は取れない/「段取り通り」はだめなヤツ・・・。

書名の「たくらむ」という感じが色濃くでているのは、「勝ち続けるために負けておく」という章だろうか?

番組内での企画は、「3勝2敗」くらいのペースでいいと考えています。5戦ごとに1つ勝ち越せばいい。<中略>
ここで言う「負け」とは、別にダメな企画というわけではありません。「一部から強く支持されそうだけど、外すしかないもの」「かなり冒険的なもの」というイメージです。一方で「勝ち」のほうの典型は「一度やって評判のよかった企画の第2弾」「今までの経験上、好結果が期待できる新企画」「企画段階からゾクゾクするような企画」(最近でいえば『アメトーーク!』の『どうした!?品川』)などになります。

アメトーーク!」で、「RG同好会(レイザーラモンRGとその理解者たちが集まる会)」という企画を放送したことがあります。<中略>これは明らかに一般受けを狙えない企画です。<中略>
 しかし、ごく少数ですが、「こういう『振りきった企画』を待っていた」と思う人もいるはずだと思いました。<中略>
 また、「えっ!?」という人たちには、次の週により間口の広い人気企画を放送したときに、「やっぱり『アメトーーク!』は面白いな」と改めて思ってもらえるはずです。<中略>
こんなふうに、1回ごとの結果を求めすぎないで、飽きられないためにどうするかという点を常に企んでいます。<中略>
「勝ち越し」を続けるためには、一定の「負け」が必要なのです。

これは、著者もいうとおり、「負け」といっても「ダメ」ということではなくて、「セオリーどおりの無難な成功方程式」に乗っかるんじゃなくて、常に実験的に新しいことに挑戦していくということだろう。
それって、「勝ち=安定」を続けるよりももっと大変なことだ。

著者がそうしたハイレベルな仕事を続けていく原動力は、なんといっても「テレビが好き」「お笑いが好き」なことにある、というのは本書の隅々から感じてられるのだが、その「好き」を「仕事」に転化するのは、ある種のプロフェッショナリズム、だろう。

著者自身は、こんな言葉で語っている。

僕は自分の仕事を「饅頭作りの職人さんのようなもの」というイメージでとらえています。1つ1つの作業を丁寧に行い、気を抜かないで納得のいくものを作る。<中略>
もちろん制作者としては「だから苦労を感じてください」というつもりはさらさらありません。お客さんには「甘くておいしいなあ」と、ただ味わっていただければ十分です。
ただし職人である以上、クソマジメに仕事を積み重ねなければいけない。
そんなふうに思っているのです。

かつて「楽しくなければテレビじゃない!」というスローガンをかかげてバラエティ番組のあり方を革新してきたフジテレビがすっかり凋落し、テレビ朝日の躍進が話題になって久しいけれど、それはつまり、こういう「職人」の心意気によって支えられているということである。


・・・にしても、今回は、引用ばっかりのブログだなあ。。。