有利な条件を引き出すための「リアル」について ― 『武器としての交渉思考』瀧本哲史著

以前、このブログで勝間和代女史の新刊(『「有名人になる」ということ』)をとりあげたが、そのなかで、「2011年に出版した著書が、思ったほど売れなかった」というエピソードが出てくる。
勝間女史の自己分析によれば、「わたしと同じように、何らかの概念的なものを言語化し、かつ、生き方に迷っているロスジェネを中心とした世代に、ものの考え方、生き方指南をする、そのマーケットが存在するということにライバルが気付き始めると、どんどんライバルが参入して」来たのだそうで、そのライバルの一人が、ブログ「自分の頭で考えよう」などで著名なちきりん女史、もう一人が、今回取り上げる、この本の著者なのだそうである。

武器としての交渉思考 (星海社新書)

武器としての交渉思考 (星海社新書)

ま、この人の前著(そして、勝間女史の開拓したマーケットを奪い取った本でもある)『武器としての決断思考』についても、このブログで取り上げているので、著者の紹介めいたことは、そちらに譲るとして、内容の話に入る。

冒頭で著者は「ガイダンス」と称して、「なぜ、いま『交渉』について学ぶ必要があるのか」について語る。

根底にあるのは、著者のいうところの「王様と家来モデル」、つまり、かつてはうまく機能していたような、上司やら、先輩やら、指導者やら、上に立つ人間が「このように振るまえ」と秩序を強要し、下にいるものは基本的に上に反論することなく従っていくというモデルが、現在の状況の変化に対応できなくなっているという認識だ。
そういう時代には、互いに合意しながら、新しい秩序やルールを作り出していく必要がある。
そこで求められるのが「交渉のスキルである」という論法だ。

もう一つ、興味深いのは、とくに若い世代が社会を変革しようと考えたときに、なぜ交渉のノウハウが必要なのか? という問いに対する著者の考え方だ。

社会が大きく動くとき、その担い手になるのは、やはり若い世代である。ただし、若い世代だけで世の中を変えることはできない。
なぜなら、金も権力も、もっと上の世代が握っているのが常だから。

著者によれば、30代で明治維新の中心となった志士たちには、彼らに可能性を感じた「大人たち」がいたし、20代の毛沢東に活躍の場を提供したのは、中国共産党の初代トップの陳独秀だった。
スティーブ・ジョブズやザッカ―バーグにも、彼らに「出資」という形で支援をした人たちがいたし、ホリエモンが逮捕され、ライブドアという会社も消滅したのに対して、楽天の三木谷氏が着実に会社を成長させ続けているのは財界エスタブリッシュの支援を巧みに取り付けることができたから。

というわけで

本当に世の中を動かそうと思うのであれば、いまの社会で権力や財力を握っている人たちを見方につけて、彼らの協力を取り付けることが絶対に必要になってくる。

というのが著者の考え方である。
そして、そこで、できるだけうまいこと有利な形で「協力」を取り付けるために必須なのが、交渉の力、というわけだ。

他にも、どんどん単純な仕事が社会からなくなっていく中で、「今後、付加価値を持つビジネスはすべて交渉をともなうものになる」とか、「交渉にはロマン(=大きなビジョン)とソロバン(=コスト計算)の両方が大切になる」とか、「交渉の技術」そのものに入る前段の部分で、興味深い記述の多い本なのだが、そこばかり語っていても先に進まないので割愛。

さて、具体論としては

・交渉の意思決定者は相手と自分
・「僕が可哀そうだからなんとかして」では交渉にならない
・パイを「奪いあう」のではなく、パイという前提を見直したり、パイ自体を大きくしようと努力することが大事
・交渉は「利害の調整」が最大のポイント

などなど、当たり前のようでいて、意外と見失いがちな点がいろいろと出てくるのだが、この本の最大の売りは「バトナ」という考え方を整理していることだろう(と、著者は言っている。この考え方を理解するだけでも「この本の値段は十分ペイする」そうである)。

バトナ(BATONA)とは “Best Alternative to a Negotiated Agreement”の略。
簡単に言えば「相手に合意する以外の選択肢で、もっともよいもの」のことである。

たとえば、ある品物を売るとして、買い手が「1万円ならば買う」という買い手Aしかいなければ、「バトナ」は存在しない。
ここで、1万1000円で買ってくれるBが現れれば、Bが「バトナ」(=相手に合意する以外の選択肢で、もっともよいもの)となる。

「当たり前じゃないか」といえばその通りなのだが、でも交渉というのは、結局自分がどれだけのバトナを持っているのか、そして「自分のバトナ」と「相手のバトナ」がどのような関係にあるのか、の組み合わせで決まってくる。
そして、単純な「ものを売るか売らないか」という話ならばいいが、ここにいろんな条件が絡み合って来れば、何がバトナなのかを見極めることが、案外難しく、そして重要なことであるのも理解できよう。

この本には「例題」として、色々な状況下で、どのように対応するのが正しいのかを問う問題が出てくるのだが、なかには、それはちょっとどうなんだろう? という、取りようによっては、多少「あくどい」ものも出てくる。

たとえば、アメリカ大統領選で実際にあったという、こんな話。
ある候補のポスターが大量に刷り上がってきたその時、カメラマンから利用許諾を取っていなかったことが分かった。
このまま使用したら、莫大なライセンス料が請求されたり、損害賠償請求をさえる恐れもある。
この時、写真家にどういう交渉をしたか?
この候補の選対委員長は、写真家に電話をして、大略こんなやりとりをしたそうである。

「君の写真が、大統領候補のポスターの最終候補に残った。ただ、複数の候補が残っていて、ここで君が採用されるチャンスをつかむには、5000ドルくらいの献金が必要になる」

「5000ドルもの大金は無理です。250ドルくらいなら・・・」

「では、大統領候補を説得するから、少額でもいいから献金してほしいのと、大統領候補に『多額の献金はできないが、写真を通じてあなたを支援したい』という手紙を書いてほしい・・・」

こうして写真家は「5000ドルも寄付しなければならなかったのに、手紙と少額の寄付をするだけで、自分の写真が数百万のポスターに使われることになった。有難い話だ」と喜びましたとさ。

・・・う〜ん、どうなんですかね?(笑)
これ、アンカリング、つまり、「最初の条件提示によって、相手の認識をコントロールすること」の例として出てくるんですが、ちょっとアコギにすぎやしませんか? などと、このブログの中の人は、思ってしまうが。
まあ、国際ビジネスの最先端の交渉では、こんなこともあるのでしょうか。

著者は、交渉にチームで臨む際には、「アウトプット」、「ドレスコード」、「NGワード」の3つを必ずメンバーに確認するそうである。

アウトプットというのは、「この交渉では何を達成するのか」という目的。
ドレスコードは外見や服装のみならず、「非言語メッセージを与えるすべて」のこと。
カジュアルな雰囲気が、厳しくピリピリした雰囲気でいくのか。
著者は、こちらがあまり金を持っていると思われると困るときは、わざとヨレヨレのスーツでいくのだそうな。
で、NGワードは、たとえば「今日はコストの話はしたくないので、値段については一切こちらからは出さないように」といったことである。

まあ、ヨレヨレなスーツを用意するかどうかは別として、こういったことは、案外あいまいなまま客先に行っちゃっていることは、案外多い。
これは心しておいてよさそうだ。

全体を通して思ったのだが、交渉術とは結局、あくまでも「術」なのであって、あくまでも「ロマンとソロバン」のうちの「ロマン」をしっかり持ったうえで、「ソロバン」の部分を安定させるための「手段」と割り切ってやっていかないと、なんだが少し妙なことになりそうな気はしないでもない。

だが、理想を理想のままに終わらせないためには、「リアリズム」が必要なのだなあ、と改めて思ったりもする。
そして、この本には、現実に交渉の場をいくつも乗り切ってきた著者のリアリズムにあふれている。

ところで、話は勝間女史の本に戻るのだが、冒頭で引用した文章は、実は次のように続いている。
「他の商品と同じく、通常は追随商品のほうが改良・改正が加えられていて、先行・オリジナル商品よりも品質が良いことすらあるのです。」

ああ、確かにその通りだなあ・・・という感想を、最後に付け加えておくことにする。

ネットという「公共圏」に膨大な情報が流れる時代について、取りとめもなく考えてみた ― 『パブリック』 ジェフ・ジャービス著

これが、どの程度、一般的に知られている話題なのかはよく分からない。
ヘビーなネットユーザーの方ならば、先刻ご承知の話題だろうし、そうでない方の中には「えっ! そんなことになっているの?」と驚く方も、いるかもしれない。
このブログを読みに来てくださる方が、そのどちらなのかは、よくわからないのだが。

で、何がおこっているのかというと、今、ネットで「大津のいじめ事件」について、ちょっとした騒ぎが持ち上がっているのである。
「加害者」とされる少年や家族の個人情報が「まとめサイト」に上げられて、それにまた、FACEBOOKを通じてコメントを寄せている人もいるという事態。

「加害者」の少年や、家族がFACEBOOKGreeを利用していたこともあって、ずいぶんと色々な情報が突き止められてしまっているわけだ。

今、ネット上には、驚くほど大量の、個人にかかわる情報が流通している。
それは、“誰か”や“なにか”に強制されたものというよりは、それぞれの個人が利用者として、自ら進んで提供しているものなのだが、それらはすべて、ネット上に流通し始めた途端に「公共」のものになる。
つまり、流した当人の意思とは関係なく、あらゆる角度から参照されたり、利用されたりするものとなるのだ。

個人の情報やら意見やらが、膨大に「公共物」となっていく。
これは、オオゲサな言い方をすれば「人類始まって以来」の事態なわけだが、果たして、それを「是」とみるか「非」とみるか。
それを「是」とみる立場から書かれたのが、たとえばこの本なわけである。

パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ

パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ

この本の基本的な立場は、「イントロダクション」の、この一説に凝縮されている。

僕はこの本をとおして、もしプライバシーに固執しすぎればこのリンクの時代にお互いにつながりあう機会を失うかもしれない、と言いたい。インターネットのリンクは、奥深い影響をもつ発明だ。リンクは僕らをウェブのページにつなげるだけでなく、人や情報や行動や取引をつなげてくれる。リンクは、僕らが新しい社会を形づくり、パブリックであることを再定義することに役立つ。未知なるものを恐れるあまり、リンクの網から自分を切り離す時、僕らは、人として、企業として、組織として敗北することになる。自らをオープンにすれば、僕らは学び、つながり、協力する機会を得る。

著者は、自ら前立腺癌を取り除く手術を受け、その影響で一時的に失禁や勃起不全の症状がでた経験を自らブログに記すくらいの「パブリック」な人物で、そのことでキャリアを築いてきた。
その実践に基づいた言説には、説得力とともに「フツーの人にはそこまでできないよ」感がただようわけだが、ま、「なんかネットってなんだか、やっぱり怖いよね」と思っている人ほど、その対極にある主張に耳を傾ける価値はある、という気はする。

もちろん、こうしたパブリックの価値に懐疑的な人たちも世の中にはたくさんいて、そのあたりの考え方は国によっても違う。

本書では、「プライバシーへの執着」が強い国として、ドイツの例が挙げられている。
グーグルストリートビューでドイツの風景をたどっていくと、突然のモザイクにおって視界を遮られることが多々あるという。ブログで自分の日常や意見について共有しようとする人の数も、他の国に比べて少ないそうだ。

一方で、アメリカでは、クレジットの買い物履歴をネット上に公開するサービスが、それなりの利用者を集めていたりする。いささか驚かざるを得ないが、まあ、「私、こんなもの買ったのよ」と自慢することが、人の自尊心をくすぐる一種の娯楽であることを考えれば、その行き着く先は、そういうことになるのだろうか。



さて、わざわざブログで取り上げておいて、こんなことを言うのもなんなのだが、正直、この本、なんだかまとめにくい。

著者の個人的な体験から、パブリックにおけるビジネスや企業のあり方やら、グーデンベルグによる印刷術の発明とネットの普及を対置させての文明論まで、極めて幅の広い論点を、膨大なエピソードの集積やら引用やらを交えながら論じているからだろう。
それは、なんだかずるずるとネットサーフィンしていきながら一つのテーマを追っているような趣で、それは、ある意味、極めて「ネット的」といえるのかもしれないが。

そんな中で、著者がいう「パブリックであることの注意点」は、ネットリテラシーを論じるうえでは、落とせない論点だろうなあ、という気がする。
なにしろ、これだけ「パブリック」である価値を力説する人にして、「注意すべき」と言っているわけだから。

全てを引用はしないけれど、主なところをいえば
・タトゥーの法則(=一度ネットに投稿した内容は永久に残ることを忘れてはいけない)
・一面の法則(=新聞の一面に出て困ることはいうべきではない)
・「荒らしにかまわない」の法則(これは「言わずもがな」ですね)
・正直さの法則(=ネットでは失敗したら、それを自分の責任と認めることが極めて大切)
といったところである。
まあ、よく言われていることではありますがね。

でも、案外「タトゥーの法則」を忘れている人は多いような気もするけれど。。。


果たして、ネットのもたらす「パブリック」が、著者のいうような「バラ色の未来」をもたらすのかどうかは、このブログの中の人にはよく分からない。

著者は、よく言われる「ネットにおけるプライバシーに対する疑念」を、説明のつかない「なんとなく気味悪い」という感情に基づく非合理なものとして退けようとしているが、やはり「非合理的」というだけで、払拭できるものでもないと思うし。

冒頭に紹介した「大津の事件のまとめサイト」を見ると、ものすごい熱意をもって関係者の実名や行動を突き止め、事件の真相を暴こうとする人たちの存在を感じる。
そして、それを応援する人たち(しかもFACEBOOKを通じて、実名で)が確実に存在し、その痕跡はネット上に永遠に残るわけだ。

もちろん事件は痛ましいものだし、もし事件に「加害者」がいるのであれば、そこに大きな怒りが生まれるのは当然だろうと思う。
そして、「まとめサイト」に情報を提供する人々や、そこに喝采を贈る人たちの動機が、人としてある種の「正義」に基づいているのもわかるのだが、それでもなんだか、あの「まとめサイト」を見ていると、言いようのない戦慄が走る。
多分それは「なんとなく気味悪い」というだけで片づけてはいけない感情だとも思うのだが、どうだろうか?

・・・と、今回は、なんだか、紹介した本自体は、単なる「触媒」に過ぎないのであって、つまりは、あの「まとめサイト」を見たときの、なんとも言えない気分を少しでも整理しようかと思ったのだが、どうやら全く整理はできていませんね。
ここまで読んでくださった方には、なんだか申し訳ない気分である。

ただ一つ、確実にいえることは、ネットによる「パブリック」の拡大は、もはやだれにも止められない、ということだろう。
かつて、SFの世界では、強大な国家権力が個人情報を徹底的に収集し、個人の行動を監視する「アンチ・ユートピア」な社会を取り上げたものがよくあったけれど、現実はそれとは大分違って、情報を提供するのも、監視するのも、それぞれの個人の自主的な意思によるものになりつつある。

本書の著者によれば、それは「よりよい社会」へのあらたな一歩であるわけだが、果たして・・・。

憎悪と単純化が何かを解決することはない ― 『ネットと愛国――在特会の「闇」を追いかけて』 安田浩一著

極めて微妙な問題をはらんでいるテーマの本なので、果たしてこれをネタに書くべきかどうか、一瞬迷ったのだけれど、やっぱり傑作ノンフィクションであることは間違いないので、やっぱりこれでいこう、と思ったわけだ。
余計な誤解を招かなように、書いていきたいと思うわけだけれど。

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて (g2book)

在特会。正式名称は「在日特権を許さない市民の会」。
在日韓国・朝鮮人は他の在日外国人には許されない「特権」を保持しており、日本は長きにわたって在日の犯罪や搾取によって苦しめられてきた、というのが同会の主張である。

公式サイトによれば、このブログを書いている時点で、会員数は11,875人。
もっとも、入会金や会費はなく、PCや携帯上で登録するだけの「メール会員」という制度もあるから、その数がどの程度の意味をもつのかというのは、容易に判断することができないけれども、いわゆる保守・右翼団体のなかでは、かなりの勢力を持っていることは間違いない。
在特会が自称するところによれば、「右翼」ではなく「行動する保守」だそうだが。

ネット界隈ではつとに有名な存在だから、その活動の様子をYoutubeなどで見たことがある人もいるかもしれない。
行動する保守、という自負をある意味裏切らず、街頭で過激なデモを繰り広げる団体だ。
そこで繰り広げられる言論は「ヘイトスピーチ」そのもの。このブログの中の人は、その手の言論を唾棄すべきものと考えるので、ここに引用することは差し控える。
興味あればネットで検索すればすぐに動画がみつかると思うが、その結果、嫌悪感で胸がムカついても自己責任ですよ、と申し上げておく。

本書は、この団体の設立者であり、現在も会長を務める桜井誠(本名:高田誠)をはじめ、数多くの中心的な活動家たちに直接取材して物したノンフィクションだ。

著者は、1972年生まれの、桜井のルーツを探るべく、かつて炭鉱町として栄えた北九州のとある都市に取材に訪れる。
そこで聞いた、少年時代の桜井の印象は、こんな感じだ。

私が話を聞いた元同級生たちは、誰もが同じような印象を口にした。
「無口で目立たない」
「もの静か」
「高田? そんな名前の人、いましたっけ」と、存在そのものを疑う者もいた。
〈中略〉
 そうした話を聞きながら、私はアルバムに残された高田のさびしそうな顔を何度も見つめた。そのたびに気が遠くなるような、現在と過去の彼との「距離感」を覚えた。

在特会のルーツはどこにあるのか。

米田(在特会広報局長の米田隆司=引用者注)は在特会の設立経緯について話を進めた。
在特会の母体となったのは『2ちゃんねる』のようなネット掲示板で、保守的な意識をもって“活動”してきた人たちです」
 ネット掲示板などを通じて「愛国」や「反朝鮮」「反シナ」「反サヨク」を呼びかける者たちは、一般的にネット右翼と呼称される。朝から晩までパソコンや携帯にかじりつき、「朝鮮人は死ね」などと必死に書き込む者たちの存在は、ネットが一般化した90年代以降、急速に目立つようになった。

そうした「ネトウヨ(=ネット右翼)」という土壌の中から、、ネットを通じて情報収集や交流、呼びかけを行いながら、活動をネットの外に広げていくことで出来上がったのが、在特会なのだといって大方間違いであるまい。

当初は「東亜細亜問題研究会」と称し、ネット上での勉強会の性格が強かった在特会に、大きな影響を及ぼした人物がいる。
主権回復を目指す会」という右派系団体のリーダー、西村修平
1960年代、学生運動華やかなりし頃に、運動家として活躍した人物だ。
毛沢東を読み込み、「学生訪中団」のメンバーとして文化大革命さなかの中国を訪れた経験も持つ。
だが、中国で貧しい農民の生活にふれ「社会主義の成果がこれほどなのかとショックを受け」て左翼活動から身を引いた経験を持つ人物だ。
彼は30年間、建設会社のサラリーマンとして過ごした後、再び運動の世界にもどってくる。
ただし、今度は、反中国の闘士として。

この西村修平の影響で、桜井誠は過激な運動スタイルを体得していくのだが、当の西村修平は、著者に対して、こんなことを語っている。

「最初はおとなしくて臆病な男だったことを覚えている。僕の活動におそるおそるという感じで参加していたが、ぼけえっと突っ立っているだけだった。まあ、そのころと比べれば、彼もよくがんばったじゃないか。別に僕は桜井君の保護者でもなんでもないし、彼は彼なりに活動すればいいんですよ」
どこか突き放したような口ぶりでもあったが、このときからすでに在特会との温度差を感じていたのだろう。西村はのちに桜井や在特会を激しく批判するようになる。

そう、当初、桜井誠の活動を右派や保守の立場から評価してきた“大人”たちも、その活動が過激化するにつれて、距離を置き始めているのだ。

著者は、在特会で中心的な存在となっている複数の会員の姿も、丹念に取材している。
そうして見られた“彼ら”の姿、そして彼らの背景にある社会とははどんなものなのかか。

私たちは、ちょっと気恥ずかしい思いをしながらも、希望とか未来とか言った言葉を口にしさえすれば、なんとか明日を生きることができたはずだった。
 でも、そんな時代は終わった。
〈中略〉
人間が、労働力が、資材の一つにして扱われる。そこから格差と分断が生まれる。何の「所属」も持たない者が増えていく。
 そういった状況に自覚的であろうが無自覚であろうが、「所属」を持たぬ者たちは、アイデンティティを求めて立ち上がる。そしてその一部が拠り所とするのが「日本人」であるという揺るぎのない「所属」だった。けっして不自然なことではない。

会員の中には世の中の矛盾をひもとくカギを、すべて「在日」が握っていると思い込んでいる者が少なくなかった。一部の者は、政治も経済も裏で操っているのは在日だと、本気で信じている。それを前提に、在特会こそが虐げられた人々の見方なのだと訴える。
〈中略〉
 社会への憤りを抱えた者。不平等に怒る者。劣等感に苦しむ者。仲間を欲している者。逃げ場所を求める者。帰る場所が見つからない者――。
 そうした人々を、在特会は誘蛾灯のように引き寄せる。いや、ある意味では「救って」きた側面もあるのではないかと私は思うのだ。

本書は雑誌連載がもとになっているのだが、その途中から差別や人権のために闘っている活動家の一部からは「在特会に理解を示しすぎだ」「レイシズムファシズムに対する厳しい批判が足りない」などと猛烈な抗議を受けていたようだ。
そのような批判を受けたのも、著者の、誠実な取材と筆致ゆえだろうと思う。
在特会の主張に、けっして同意するわけではなく、その言論に激しい嫌悪感をもったとしても、それはそれとして、彼らをあのような行動に駆り立てるのは何かを知りたいという著者の思いが、本の端々が伝わってくる。

著者自身、孤立した少年時代を過ごし、「今とは違う社会」を夢想しながら、様々な党派に出入りした青春時代を過ごしたらしい。

早熟だったから、ではない。私は寂しかったのだ。
〈中略〉
 彼女が欲しかった。カネが欲しかった。その頃流行したカフェバーにも行ってみたかったし、かっこいい車にも乗ってみたかった。
 どうせ自分はこんな社会では、うまく立ち回ることができないのであれば、いっそ社会なんて壊してしまったほうがいいと、真剣に思った。
〈中略〉
 だから、もしもそのとき――。私に差し出された手が在特会のような組織であったらと考えてみる。
 よくわからない。よくわからないけれど、その手を握り返していた可能性を、私はけっして否定できない。

嫌悪と共感。
その絶妙な距離感が、この本を生んだのだなあと、心底、思う。

なお、これは在特会に限った話ではないが、世の中の矛盾や不条理を、なにか一つの敵に収斂して、それを倒せばなんとかなる、という言説は大抵間違っている・・・という風に、このブログの中の人は考えている。
世の中はそんなに単純ではなくて、一つ一つの問題を少しずつ紐解いていくより他に、やりようはないと思うわけで、その意味で言えば、多分、在特会の存在を否定するだけでは、何も解決することにはならないのだろうなあとも。

そうそう。もう一点だけ言及したいことがあった。
在特会には、けっして表だって在特会の活動に同調しないけれど「陰ながら応援している」「ああいう活動を自分はしようとは思わないけれど、彼らはよくやっていると思う」というスタンスの「普通の人たち」が一定数いるらしい。
そういう「普通の人たち」と、ある意味、一線を越えてしまう人たちの差はどこにあるのだろう? なんてことを、ふと思ったりもしたのであった。

・・・やはりちょっと重かったな。この本。
そして、この短いブログで語りつくせる本でもないのであった。
いや、普段、ほかの本を取り上げたときだって、別に語りつくしているわけではないのだが。

ブームと「終わコン」が作られる過程について ― 『「有名人になる」ということ』勝間和代著

以前からリアルでおつきあいがあって、このブログを読んでいる方に、「『あの本』についてはブログかかないの?」と聞かれてしまいました。

このブログの中の人は、この人の著書や言動について結構批判的(ととれるよう)な言辞を繰り返していたので、果たして、新しい著書、それも、この人があれよあれよという間に有名になり、そして最近少しナリをひそめたかのように見えるその「カラクリ」を自ら語り明かした本書に対してどんな感想をもつのか興味を持たれたのだろう。

その本とは、これです、はい。

この人のおこした「カツマーブーム」華やかなりし頃、精神科医斉藤環氏が、彼女の存在とその「消費のされ方」がはらむ問題点について、鮮やかな分析を展開して見せたことがある。
このブログの中の人は、なんだか自分の中にあるモヤモヤとしたものを、鮮やかに整理して見せてくれたような心持になって、偉く感心したものだ。

今でもその分析はネット上に公開されているので、以下にリンクを貼っておく。

『“勝間和代ブーム”のナゼ』
http://shuchi.php.co.jp/article/755

この中で、斉藤氏は、勝間和代が目指している(と思われる)「社会改革」と、多くの「カツマー」を集める原動力ともなった「自己啓発」との間に横たわる乖離について指摘している。
だが、今回の本を読むと、斉藤氏の分析も、なんというか、勝間和代の「手段」に過ぎないものを、大げさに分析しまったということなのだろうな、という感じがして、なんだか斉藤氏に同情にも似た気持ちが浮き上がってくるのだ。

どういうことかって?

本書で勝間氏が言っているのは、簡単にまとめてしまえば、「私が有名人になったのは、ビジネスとしての戦略に基づいてのことなんですよ。で、その戦略とは、こういうもので、実際にやってみると、こんなメリットやこんなデメリット、予想外のこんなことがあったんですよ」というノウハウ&経験談なのである。

とすれば、斉藤氏の批判も、なんだか戦略的に構築された「手段」の部分を、正面切って大きく批判してしまっているような感じがして、どうも勝間氏のかいた設計図の部分品をことさらフレームアップした議論のように見えてしまうのだ。

もともと勝間氏は「社会的責任投資(SRI)ファンド」を作るために会社を作ったのだという。
SRIとは、環境・教育・少子化対策などなど、社会問題を解決することに熱心な企業に資金を投資することで、社会を改善しようとする活動だ。

ところが、リーマンショック以降、海外の大口の顧客が日本を撤退、新規顧客の獲得も難しくなり、実質的にはSRIとは言い難い、通常の投資アナリスト業務が多くなる中で、勝間氏が考えたのだ。

「そうだ、わたし自身が有名になって、これまで実現できなかった社会的責任についての発言を行える立場になればいいのだ。そして、その活動でものすごく潤沢でなくてもいいけれども、今いる社員とその家族が困らない程度の収入を得られる道はないだろうか」

かくして、コンサルタントとアナリストとして磨いた分析力と戦略構築力でもって、「有名人になる」ことをプロジェクト化し、それを実現してしまったのだから、なんともアッパレな話ではある。

当初、著者がたてた目標は、BtoCビジネスを主力に据えたうえで、「非助成認知率」(顔を見たときに、名前を挙げてなくても誰だか分かってもらえる確率)を30パーセントにする、いいかえれば、世の中の3〜4人に一人は、顔をみれば誰だか分かってもらえるようにする、ということだったという。

そのための具体的な方法論は、もし「自分も有名になりたい!」という方がいれば、ぜひ本書にあたってみていただければとおもうが、『金曜日のスマたちへ』へ出ることと、『紅白歌合戦』の審査員になることを具体的な目標にかかげて周囲にも公言し、『情熱大陸』ほかの「有名人をつくりだし、そのことによって儲ける仕組み」に巧みにのっていく過程は、「カラクリの種明かし」という感じてなかなかに興味深い。
ちなみに『金スマ』は、『女性の品格』ほか、ベストセラーを生み出した実績が随一のテレビ番組で、紅白歌合戦の審査員というのは、毎年「文化人枠」が一つあるので、そこに収まることが「その年一番活躍した文化人」の証になるのだそうである。
(ここで「文化」ってなんだろう? という話をしだすので、またややこしいことになるんで、とりあえず、置いておく)。

勝間氏の新刊が続々と本屋に並ぶようになった頃、そのテーマは拡散し、質もだんだんと低下していっていることは、あちらこちらで指摘されていたが、本書になれば、そのことを一番よく分かっていたのは、当の本人だったようである。

勝間氏の自己分析によれば「人前に出るのが苦手」で、「不特定の人に、落ち着いてやさしく話すということも得意ではありません。得意なのは専門的な話に関して、その話を聞きたがっている人に、短時間にできるだけ多くの情報を投げかけるだけです」という著者が、バラエティ番組にでたり、「そこに有名人がいるから使ってみよう」というビジネス的な要請にこたえて仕事をこなしていけば、それは質が低下していって、当然ではある。

そんな過程を得て、著者が得た教訓は、簡単にまとめれば
「有名人になる金銭的な見返りは、思ったほど大きくないが、最大の魅力は人脈が広がり、社会への発言力が大きくなること。一方でデメリットは、『衆人環視の中で生きる』必要があり、見知らぬ人から誤解も含めた批判や攻撃を受けること」
といったことだろうか。

かくして、「有名人になる」という戦略的ビジネスにかなりの成功を収めつつ、段々と「手段と目的」がごっちゃになったり、またブームの周期からいっても潮時と考えて勝間氏は、2011年には意識的に仕事をへらしたそうだ。
その結果、ネットではさっそく「終わコン」(=終わったコンテンツ)呼ばわりされるようになるわけだが、2012年には、また違った展開で、この「有名人」というビジネスに取り組むそうである。

著者本人も語っている通り、これほど「有名人になる」ということを明確な目標として、戦略的な方法論を打ち立てた上で取り組み、実際に結果をだして、しかもその過程を積極的に開示して本にまとめた人というのは、極めて珍しいだろう。
もちろん、それを実行するには「ひたむき」で「前向き」な努力が不可欠なのであって、その意味で、確かにすごいことだと思う。

でも、そこに、そこはかとない「ズレ」や「違和感」を感じるのはなぜだろう?

勝間氏は、あとがきの中で、「有名」になりたかった理由として、こんなことを語っている。

私の目的は、環境、教育、男女共同参画などを中心とするさまざまな社会問題の解決に貢献したい、多様性を進め、自分の後輩や子どもたちのためによりよい社会を残したい、そして「勝間和代がいてよかった」と思ってもらえることでした。
 でも、それ以上に、わたしは自分が自由であること、そして、自分の学習欲求を満たすことが大好きで、そのふたつを満たすために、すなわち自分が幸せになるために行動をしていたら、自分がいまの状況にたどり着いたような気がしてしょうがありません。

当初の「ビジネスとして『有名人になる』ことに取り組んだ」という話からは大分ずれてきているわけだが、いずれにしろ、こういう考えのもとで、さらに新しい形で「有名人ビジネス」に取り組もうとしている、ということは、まだまだ「自分が幸せになるための行動」を追い求めていく、という宣言ともとれる。

どうやらちょっと有名になったくらいでは、人は幸せにはなれないものらしい。

ところで、冒頭に引用した斉藤氏の分析には、「三毒」に関する批判が出てくる。

ちょっと長くなるが(そして、リンク先を読まれた方には重複することになるが)引用する。

たとえば彼女による仏教の「三毒」解釈は、非常に独特である。彼女は「怒る、ねたむ、ぐちる」という、いわば三毒の俗流解釈を真に受けて「怒らない ねたまない ぐちらない」という言葉をワープロで打ち出して職場の机に貼っておいたという。<中略>
 しかしその後、専門家をはじめ多くの人が、「仏教三毒」としては間違った解釈であることをネット上で指摘している。

 本来の三毒とは、「貪・瞋・癡」と呼ばれる3つの煩悩を指す。具体的には「貪:貪欲ともいう。むさぼり求める心」「瞋:瞋恚ともいう。怒りの心」「癡:愚癡ともいう。真理に対する無知の心」である由。もちろん「愚癡」=「愚痴」ではない。
〈中略〉
「自分をグーグル化」しているはずの勝間氏が、こうした指摘を目にしていないはずはないのだが、なぜかいまだに訂正もなく「私の三毒」ではなく「仏教三毒」とされつづけている。不可解といえば不可解な行動だ。精神分析的には「否認」(あるのに、ないと言い張ること)とも取れる態度である。

 仏教の教えにおいて、「煩悩」をいかにコントロールするかは重大なテーマである。しかし、勝間流の三毒追放が何をめざしているかといえば、「年収10倍アップ」ないし「効率10倍アップ」である。そのことの是非はともかくとして、これらは仏教的にはどう考えても「貪欲」そのものではないか。

そして本書には、こうした斎藤氏の疑問に対する答えはない。。

そういえば、3.11以後の一時期、とくに原子力やエネルギー問題の専門家というわけでもない勝間氏が、福島原発の問題について積極的に発言していた時期があった。(そして、ずいぶんとネットでたたかれていた)。

このブログの中の人が、勝間和代という人にどうもなじめない理由の一つに「専門外で結構いいかげんなことをいっているのではないか」というのがあるのだが、どうなんですかね?

それは、「有名人になる」というプロジェクトの過程で、露出を増やし間口を広めるためにやむを得ず起こったことなのかどうか。
と、すれば、2012年以降、新しい形で進められるという「有名人プロジェクト」の中では、その辺は改善していくのか?

まあ、それほど熱心に見つめていくつもりはないけれど、すこし距離を置いたところから見守っていきたい、という気はする。

「読む」だけでは意味がないことだから・・・。― 『経営学を「使える武器」にする』 高山信彦著

随分と前の話になるけれど、映画評論家の町山智浩氏が、Twitterでこんなことをつぶやかれていた。
曰く「自己啓発書やビジネス書というのは書いて儲けるものであって、読んでももうからない」。

まあ、氏一流の、皮肉の利いた一言ですね。
そして、この言の正しさは、たとえば、おそらく日本人の平均値よりはビジネス書をよんでいるであろう、このブログの中の人が、リアルのビジネスでさほど設けているわけでもないという事実一つを持ってしても、知れちゃったりするわけだ。

まあ、確かに「読んだだけ」では、まあ価値が全くないとはいわないけれど、でも「経営学」が「実学」である以上、それが現実のビジネスに役に立たなければ、意味がない。

そして、きちんと取り組めば、それはけして絵空事ではないのですよ、と、それが本書のメッセージであろう、と思う。

経営学を「使える武器」にする

経営学を「使える武器」にする

著者は、本書の言葉を借りれば「『経営コンサルタント』と『人材研修の講師』の中間あたりにあるんじゃないか」という仕事を生業とする方。
具体的には、企業内にゼミナール方式の「授業」を開業し、そこでまず、課題となる経営書を読破させた後、実際に自社の企業戦略を考える、という形の研修を数多く行っているらしい。
そこで議論された戦略には、実践に移されたものも多く、成果を生み出したものもいくつもあるという。

著者は、書店にあふれる経営学の本について、こう述べる。

本屋さんに並んでいる経営学の本の大半は、実際の企業価値向上には、何の役にも立ちません。もちろん、本の学問的な価値まで否定しているわけではありませんが。
 一方、そんなに多くはないけれど、企業価値向上に役立つ経営学の本が本当にあるのも確かです。ただ、それをそのまま社員が読んでも内容が理解できない。内容を理解できても、自社の戦略に適用できない。自社の戦略に適用できても、戦略が機能しない。それはいわば「動かない経営学」です。

そこで、きちっと、そうした「企業価値向上に役立つ経営学」とがっぷり四つに取り組んで、そして、自社の戦略に適用してみましょう、というのが、この人のやっている「研修」というわけである。

そこで、まず課題として取り組む経営書はどんなものかというと、
E・ポ−ター『競争優位の戦略』
フィリップ・コトラー 『コトラーマーケティング・マネジメント』
W・チャン・キム レネ・モボルシュ『ブルー・オーシャン戦略』
クレイトン・クリステンセン『イノベーションのジレンマ
ジェイ・B・バーニー『企業戦略論』
ジェームズ・C・コリンズ『ビジョナリーカンパニー? 飛躍の法則』
・・・。

どれも大著ですね。
ポーターの「ファイブフォース」とか、クリステンセンの「破壊的イノベーション」なんて概念は、いろんなところでイヤというほど使いまわされていたりする。
とはいえ、これらの概念のサワリを知っている人は多くても、原典(まあ、翻訳にしても)をきちっと読みこなして使いこなしている人は少ない。
何を隠そう(隠す必要もないが)、このブログの中の人も、上記の本の中には何冊か、やっとこさ通読したモノもあるけれど、ガッツリ取り組んで実際の仕事に生かしているかというと、そこはまあ、アレですよ、うん・・・。

本書の構成は「準備編」「実践編」「補講」の3つに分かれる。
準備編は、「古典(=経営学の古典のこと。引用者注)を侮るなかれ」というタイトルの「1時限目」から始まり、著者が重要と考える、経営戦略論のごくごく簡単な概説が語られる。
PPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)をはじめ、その内容は、類書でも多く紹介されているもので(まあ、古典を土台にしていれば、当然そうなるわけだが)、さすがに数多くの研修講師をこなしてきた著者だけあってその解説は明快でわかりやすいけれど、本書を魅力的にしているのは、「実践編」の方だろう。

ここには、広島県福山市でバラ積み貨物船を製造する常石造船をはじめ、いくつもの企業を傘下におさめるツネイシホールディングスという会社で、実際に著者が行った研修の記録が収められている。
船の舵やスクリューなどを作る子会社・常石鉄工の、自称「鉄工所のオヤジ」にマイケル・ポーターを読ませ、それまで親会社に部品を納めれば成り立っていた会社に、中国市場進出を実現させるまでのストーリーは、原本にあたっていただくとして、個人的に興味が魅かれたのは「VOC(Voice Of Customer)の重要性だろうか。

常石鉄工のケースでは、VOCを集まることで「中国と競争しても価格面でかなうわけがない」という先入観を覆されて、あたらしい戦略を構築するにいたるのだが、やはり、バックにある「理屈」と、真摯に現実に対峙する「実践」がかみ合ったとき、「経営学」という実学が本当の意味で力を持つのだなあ、ということをまざまざと見せつける。

それにしても、あれですね。
この本を読むと、もう一度、なにか「古典」をじっくり読んで、で、それをどうやって実践に結び付けるかということに、取り組んでみようかな、という気になる。
・・・と、安易にこういうことを書いてしまうと、いずれ、その成果をここに書かないとカッコ悪いことになるなあ、なんて、思っちゃって、一瞬ひるんだりするわけだが。

CMってやっぱり、その企業の姿勢とか、作り手の思いがでてくるものなんだろうなあ、という話 ― 『愛されるアイデアのつくり方』 鹿毛康司著

気が付くと頭の片隅に深く入り込んでしまった歌とかフレーズ、あるいはメロディーというのは、誰しも一つや二つ持っているものだろうと思う。

なぜ、入り込んでしまうのかといえば、一つには「繰り返し聞かされたから」というのがあって、テレビのCMなんて、その典型だ。

たとえば、日本人の大半が「チョッコレート、チョッコレート、チョコレートは・・・」と歌えてしまうのは、幼き頃からの繰り返し視聴による効果だろう。
このブログの中の人の友人に、長年憧れだったアフリカに初めて行って野生のライオンを見たときに、頭の中で「ホントに、ホントに、ホントに、ホントに、ライオンだ〜」という歌が鳴ったと言い張っている男がいるが、きっとソイツが「アフリカへの憧れ」を持った原点には、某サファリパークのCMがあったに違いない。
もっとも、この男、多少話を膨らます癖があるので、それがどこまで本当なのかは確かめようがないが。
なにせ、当人の頭の中だけの話だから。

では、繰り返し聞いていれば、どんなメロディーでも覚えるかといえば、決してそんなことはなく、たとえば、現在放映中の大河ドラマ平清盛』のテーマなんかは、現代音楽っぽい要素が強いせいか、このブログの中の人なんぞは、ほぼ毎週きいても、覚えてしまう気遣いはない。
あのドラマ、視聴率あがってないそうだが、案外、そういうところにも原因があるんじゃないだろうか?

なんだか話がそれた。

「ら〜ら ら〜ららら ららら〜 しょ〜 しゅ〜 りき〜♪」 というメロディも、この1年くらいの間に、すっかりいろいろな人の頭の中に入り込んでしまったのではないだろうか?

で、このメロディーの生みの親が書いたのが、この本である。

愛されるアイデアのつくり方

愛されるアイデアのつくり方

(↑「最近まで気づきませんでした」というお声をいただいたので、念のため注記しておきますが、画像または書名をクリックするとamazonのページに飛びます)

著者はエステーの「特命宣伝部長」。
サラリーマンで“特命”とついた管理職というと、某広告代理店で「特命係長」を務めている只野仁氏が全国的に有名だが、エステーにもこんな役職の方がいらっしゃるのである。

で、エステーといえば、もちろん「消臭力」をはじめ、「消臭プラグ」「ムシューダ」などなど、「なんだか、おもろいCMやる会社」として認識している人も多かろう。

著者によれば、エステーは、CMでお馴染みの・・・といわれる大手企業に比べれば、決して潤沢な広告費が使える会社ではない。

にも関わらず、多くの人の頭に見事に入り込むCMを作り続ける同社の、広告部門の責任者が「アイデアのつくり方」を公開してくれるとなれば、さっそく真似してみたらいいんじゃないか・・・というほど、世の中は甘くない。
本書には、「アイデアの法則」が都合11ほど載せられているが、それはたとえば
・「戦略」なきところに、アイデアなし
とか
・必ず現場にいって五感で確認する
とか
・「お客様が常に正しい」と考える
とか、まあ、こういってしまうとなんだが、「まあ、よく言われていること」であったりして、ものすごく斬新であったり、即効性のあるノウハウというわけではないのだ。
そもそも、この本、ノウハウやスキルや、研究の結果うまれた普遍的な枠組みとかを伝授する内容ではなくて、著者がどのように広告と向き合い、顧客と向き合い、仕事と向き合ってきたかという軌跡をつづったような本なのだ。

著者は、もともと雪印で営業改革やマーケティングを専門としてきた経歴を持つ。
そして、例の「不祥事」の時に、被害者・マスコミ対応の最前線に立ち、社員有志7人で「雪印体質を変革する会」を結成した人物なのだ。
著者の言葉を借りれば、会社を「完全否定」され「存在価値がない」とまで言われる状況に追い込まれる中で、「社員一同」の名義で謝罪広告を打つなどの対応をとるなど、「修羅場」を潜り抜けた人だからこそ、次のような言葉が出てくるのだろう。

企業人は、絶対にお客と同じ視線をもつことはできない――。
逆説的かもしれない。
しかし、自らの無力を自覚するからこそ、なんとかお客様の「目線」に少しでも合わせられるように努力をするのだ。その謙虚な気持ちをもつことこそが、せめて僕らにできることなのだ。

ストーリーが連続仕立てになっていたり、「CMの制作が間に合いませんでした」と告知したり、意表をつくCMが、どういう経緯や考え方のもので生まれていったのか。
そういった内容については、安易に要約しても全く面白くないと思われるので、そういう野暮なことはしないが、それぞれが、なかなかに興味深いストーリーであるのは確か。

震災直後に流された、あの、少年(ミゲルくん)が朗々と歌うCMの原点になったアイデアは、著者が、震災直後、企業としてどういうCMを流すべきか考え続けていたときに、トイレのドアを開けた瞬間に思いついたものだという。
ここにも「安易に真似すべき法則などない」ことがよく表れてますねw
著者の経験と思いが、こういう瞬間をもたらしたと考えたほうがよさそうです。

そして、本書の中で、記述は少ないが個人的に印象にのこったのは、トップの存在についてである。
ミゲルくんのCMを制作に至る過程で、鈴木喬社長(現会長)との間で、こんなやり取りがあったという。

社長は開口一番こう言った。
「ACって、あれはなんだ」
僕は内心、わが意を得たりの思いだった。ひとしきりACについて説明したあと、思い切って提案した。
「今こういう時期だからこそ、CMをやるべきだと考えています。CMをつくってもいいでしょうか?」
一瞬の間があった。そして、社長は自分に言い聞かせるかのように言った。
「こういう時こそ志を見せるってことだな」

また、著者が制作の指揮をとったCMが、意図せざるところで問題となり、放映中止になった時には、こんなことを言ったという。

「わかった。お前は反省するな。お前はギリギリのボールを投げて、これまで成功してきたんだ。反省したら、もうボールが投げられなくなる。いいな?」

う〜ん。
やはり愛されるアイデアや、人の心にのこるCMなんていうものは、安易な法則や技術論にのっとって作れるというものではなさそうである。

浜の真砂は尽きるとも、世に○○のタネは・・・ ― 『陰謀史観』秦郁彦 著

どうやら、このブログの中の人は、陰謀論というやつに興味があるらしい。
気が付くと、何冊かその種の本を持っている。

といっても、別に世界はユダヤとロックフェラーとフリーメイソンに牛耳られていて、民主党は“特ア”に操られた売国奴の集団で・・・などと、ここで主張するつもりはない。

むしろ逆、というか、陰謀論の生まれる構造みたいなものに興味があるのだ。

そういえば、3.11以降、ネットにはデマや陰謀論が活発になって、中には、「東北の地震は、地震兵器によるものだ」と主張する地方議員がでてきたり、「au(KDDI)がiPhoneの発売を決めたのは、東電か株の一部を持つKDDIが、反原発自然エネルギーの事業化に熱心な孫正義ソフトバンクを追い込むためだ」とかいう話がツイッターに出回ったり、想像力の極北に位置するような説がいろいろ出てきていた。

今日取り上げる本に出てくる言葉を借りれば、「世に陰謀のタネはつきまじ」ということだろうか。

まあ、ここまで極端な話になれば、生温かく見守ることで、一種の“娯楽”として受け入れることもできる
だが、たとえばそれが、ある一定の社会的地位のある人たちによって体系化され、それなりに社会的にインパクトを持つとなれば、看過するにはいかない・・・というのが、多分、著者がこの本を書いた動機の一つなんだろうな、と(勝手に)想像してみたりしたわけである。

というわけで、今回のお題はこの本。
陰謀史観 (新潮新書)
もう、タイトル、「まんま」ですね。
著者の秦郁彦氏は、実証的な現代史研究家として著名な方だから、ご存じの人も多いだろう。従軍慰安婦問題などでもおなじみの論客である。

陰謀史観とはなにか。
広辞苑で「陰謀」と「史観」という言葉を引くと、次のように書かれているそうだ。

陰謀 ひそかにたくらむはかりごと
史観 歴史的世界の構造やその発展についての一つの体系的な見方

ま、当たり前といえば当たり前の定義だが(ま、辞書に奇をてらったことを書かれても困るけれど)、「体系的」というのがポイントだろう。
そう、けっこう体系的なのだ。世の中に流布する陰謀説というのは。

そんな中で、本書で著者が論じるのは、

(1)前期の「ひそかに」、「はかりごと」、「体系的」の三条件を満たしていること。
(2)昭和期を中心とする日本近代史の流れにくり返し出没して、定説ないし通説の修正を迫るもの。
(3)それなりの信奉者を集め、影響力を発揮している。

 具体的には、明治維新日露戦争張作霖爆殺、第二次世界大戦東京裁判や占領政策まつわるものなどなど。
それらを、歴史な流れに沿って順々に解説したうえで、本書の後半で著者がとりあげるのは、「田母神論文」だ。

当時、自衛隊航空幕僚長だった田母神俊雄氏が、某ホテルグループの懸賞論文に応募、その内容が物議を醸し、田頼神氏は職を解かれ、その後、言論人として活躍するようになった経緯は、ご記憶の方も多かろう。

著者に言わせれば、田頼神論文の評価は次のようになる。

受け売りが多いとはいえ、諸説をかき集めて一堂に並べたのはユニークな着想といえよう。とかく陰謀論を唱える人士はある特定のテーマにのめりこむ傾向があり、相互の交流は乏しく体系化ないし集大成を試みる人は少なかった。

まあ体系的に並べて見せて一定のインパクトを見せたところで、その要素一つ一つが間違っていれば、当然「すべてが間違い」になる。
どこがどのように間違っているか、個別の立証は本書にあたってもらうとして、問題は、それが、知識人を含め、それなりの支持者を得てしまったことだろう。
著者は『国家の品格』『日本人の誇り』などの著者、藤原正彦氏などを、その例として挙げているわけだが。

本書の最終章では、こうした陰謀史観の構造を、著者が簡明に分解してみせる。
著者に言わせれば、陰謀史観における“担い手”は、2種類に分けられる。
一つはコミンテルンコミュニスト・インターナショナル)CIA、KGBなどなどの国家機関ないし準国家機関。
これは、それなりに記録が残されていたりするので、真実が明らかにされることも多い。
もちろん、いろいろな工作は現実に行われているのだが、たいていは「陰謀論者」がいうように自由自在に世界史を動かしているわけでではない。

で、もう一つは、ユダヤ、フリーメーソン、国際金融資本などの非国家組織。こちらはたいてい記録などなく、陰謀と成果の因果関係すら、判然としない場合も少なくない。

そして、これらの陰謀史観には、おしなべて「因果関係の単純明快な説明」「飛躍するトリック」「結果から逆行して原因を探り出す」「無責任と無節操」といった特徴を持つという。
「すべては“ヤツら”が悪い」という説明、単純で分かりやすいですからね。

そして、歴史というのは、そんなに単純でわかりやすいものではない。
つまり、そういうことなのだろう、と思うわけです、つまり。